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ア・セラポール行列車(遺作)
中村 篤九
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ア.セラポール行きの列車の中で私は1人の奇妙な男と知り合いになった。何が奇妙なのかといえばそれは必要以上にたくわえたそのアゴヒゲであった。まるでそれは世界で1番太った女をほぐして1種の動物繊維にしたほどの量があり、このアゴヒゲのためにその男はオーヴアは背中の部分だけ仕立てればよいほどであった。男はたえず、小さな旅行鞄からさまざまな食物をとり出して口に入れて居た。しかしなにしろ、マレーのジャングルのように顔の下半分からひざっこぞうへかけてウッソウとおいしげってるアゴヒゲのことであるから、私にはその男の口が一体どこにあるのか見当がつかなかった。私は始めその男に向かい合って座った時から絶えずその口の在処を気にして居たが、普段我々の口のある位置よりは、はるかに下の方に、その男の口はあるようであった。
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ア.セラポールへはまだ6時間もこの列車は走らなければならなかったが、しかし私は左程退屈ではなかったのである。その奇妙な男が、その奇妙なアゴヒゲで私を楽しませてくれるばかりでなく、又素晴らしい話術家であったからである。その男が私に話しかけたのは列車が何かにつまづいたのかひどく動揺して網棚の上の鞄が一斉に客席に舞い降りてきた時であった。乗客のほとんどは自分に所属して居る鞄にしたたかその頭をぶたれて、ブツブツ文句を言ったり、ガミガミ怒鳴ったり、車内がひどくやかましくなった時である。
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「これはここだけの話ですがね。全くの話こんな流行言葉は使いたくありませんが。」
奇妙な男はそう冒頭して次のように喋り出した。
「ここだけの話、という話ほどどこにでもある話はありませんね。私はここだけの話という話を何百となく聞きましたよ。八十年もつれそってて十八人も子供があって六十五人も孫がある大統領の夫人が実は敵国の間諜であったと言う話などは、始めに市場の乾物屋で聞き、次に理髪屋の小僧に聞き、市電の運転手に聞き、喫茶店の女給仕の母親に聞き、そして又私の女房にききましたがね。とも角それらの八人はきまってこゝだけの話ですがとこの話をきり出したものです。そこで私の話ですがね、これこそ本当にここだけの話ですがね。若しこの話がこの列車の専務車掌の耳にでも入ってごらんなさい。私はこの時速百哩で走ってる列車の窓から放り投げられてしまいますよ。実は私は1人ではないのです。いやそのように驚いてはいけませんよ。本当に私は一人ではないのです。それは郷里のタボツクに女房と子供が3人居ると言うのではありません。現在私は一人ではないのです。私のこのアゴヒゲをごらんなさい。考えて見たってこんなアゴヒゲが、なんのために必要なのか、をかしくお思いになるでしょう。実はこのアゴヒゲの中に人間が一人かくれて居るのです。私はさっきからこのヒゲ中の男のために何回も食物を与えて居たのです。
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しかもこの男はたゞ単に一枚の乗車券を経済しようとたくらんで居る無賃乗車犯ではありません。スパイなんですよ。しかも今、この国の当局が必死になって探して居る間諜キクメモ氏なのです。
駄目ですよ。そんなにビックリなさっては。駄目ですったら、今あなたがそれを専務車掌や他の乗客に知らせようとしても、貴方が知らせに行く前に、ヒゲの中のキクメモ氏が音のしないピストルを発射すると言うものです。まあ腰を落ちつけて私の話の続きをお聞きなさい。ヒゲの中にスパイが居る。全く変な話です。しかしえてしてヒゲの近所にはスパイが居るものです。あの有名な政治家カロツグ氏は自分のひげの直ぐ下に居た口がもっとも優秀な敵国のスパイであったと告白して居ますね。
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さて私はこのヒゲの中のキクメモ氏を、ア.セラポールまで運ぶ役目があるのですがね。それは別にたいした仕事ではありません。たゞこの中のキクメモ氏が大きな仕事を持っていくのです。間諜も昔のように黒いソフトを目深にかぶって黒い眼鏡をかけては居りません。書類を盗み出したり、敵の大将に毒をもったりするばかりが仕事ではなくなったのです。キクメモ氏は多分、ア.セラポールで私と一緒に下車すると、決してあの町の真ん中にある火薬庫に火をつけるようなことをするのではありません。キクメモ氏はたゞあの町に入って、兎も角初めに逢った人に、
「お天気がつゞきますね」
とたゞ一言言うのです。
すると、それがどうなるとお思いですか。見知らぬ男からそう聞いた男は、多分こんどは自分の知り合いの誰かにこう言うに違いありません。
「天気は大分つづくとさ。」
すると、その知り合いの誰かは又知り合いの誰かか、自分の女房さんかに、「こんな天気続きでは、町中がやけつくようにあつくなるね」
と言うのです。するとその知り合いか女房さんは、
「町中が火のようになるそうだわ」
と誰かに言うのです。そしてしまいには町の中のあっちこちが今にも燃え出しそうな噂となるのに三分とはかかりません。そしてあなたはどうなると思いますか。間諜キクメモ氏が次の町のアネテに戻る頃には、ア.セラポールの火薬庫は噂を本当だと思い込んだ人々のために水をぶっかけられ、使いものにならない火薬の倉庫となってしまうのです。
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つまりこの頃のスパイはこんな手もあるのです。まあまあ、そう尻をもじもじさせることはありません。私の話をきいて多分あなたはア.セラポールで下車なさると直ぐに駅前の交番にとび込んで、実は間諜キクメモがこれこれしかじかの様子でこの町に入り込み、こんなデマをとばして結果はこうなると逐一報告するに違いありません。するとどうなると思います。貴方がそれだけ言っただけで、キクメモ氏がア.セラポールに下車しなくとも、下車したと同じ効果を生むことになるのです。仮にこのヒゲの中にキクメモ氏が居なくとも。
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何をそんなにキョトンとしているのです。スパイはこんな具合いろいろな手をもって居るのです。いいですか、兎も角他人の言葉に一々驚いたり耳を傾けてはいけませんよ。いいですか、驚いてはいけませんよ、私のアゴヒゲの中にキクメモ氏が居るなんてことは嘘っぱちですよ。つまり私は貴方にスパイのひとつの手口をお話しするために、一寸嘘をついただけなのです。」
そう言ってこの奇妙な男はその豊富なアゴヒゲをひざっこぞうの方からまくって見せた。
するとそこに、生まれて間もない小さな猫がキョトンと座って居るのであった。
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