湿原のロマン

岡田 光正

昭和28年卒業の一橋大学同期生の大半が60歳の還暦を迎える平成3年を記念し て、それぞれ青春時代の回想、仕事の中で遭遇した感動などを寄せ合った文集を作る ことになった。そこで私は直近の北海道新聞釧路支社時代に偶然知り得た、今は亡き ある先輩の湿原に生きたロマンを紹介したい。

昭和初期の北海道といえば開拓の緒についたばかりであり、その最東端に当たる人跡 未踏の釧路湿原の一角に、東京で代々続いた老舗の家業をなげうって入植した一橋大 学(当時の東京商科大学)OB夫妻の、これは知られざる物語である。

四年前(昭和62年)に国立公園に指定された釧路湿原は総面積二万九千ヘクター ル、東京都区部をすっぽり呑み込むほどの広さである。高台から展望すると、アフリ カのサバンナを思わせるような大草原に、いく筋もの原始河川が蛇行し、大小の湖沼 が点在するパノラミックな景観にまず圧倒される。私が釧路に在任中、訪ねてきた道 外の友人は一様に「やはり北海道は広いな」と感嘆することしきりだった。

二十万都市釧路の近郊にこのような大自然が手つかずで残されていた理由は、この湿 原が見た目の優しさとは大違いの、人を寄せ付けない厳しいものを持っているからで ある。
「ヤチマナコ」と呼ばれる危険な落とし穴が草むらの至る所に隠されており、馬でも 落ちたら最後、アリ地獄に吸い込まれるように水没し、二度と姿を見せることがな い。大体、湿原とは近年になって学者がつけた名で、地元の人は長らく「ヤチ」(谷 地、野地)と呼んで厄介物扱いにしていた。

およそ一万年前の釧路湿原は陸地に深く入り込んだ海だった。それが六千年前ごろか ら三千年前にかけて海がじわじわと後退し、現在の湿原が形成されたという。このた め湿原の周囲の高台には宮島岬、キラコタン岬といった地名が多く、貝の化石の層が あちこちで地肌からのぞいている。

このような土地に先輩の長谷川光二氏は、関東大震災でもろくも崩壊した東京に見切 りをつけて、昭和の初め、北海道の東の果て釧路湿原の奥深くにあるキラコタン岬 に、夫人と一緒にひっそりと入植したのだった。時期といい、場所といい現在、この ことを記憶している人は釧路にほとんどいなかった。

だが、釧路湿原の国立公園指定を機に湿原を探訪中の北海道新聞記者が、鶴居村の人 里から離れた所に、長谷川一家の住んでいた廃屋を見つけ、明るみに出た。長谷川氏 が一橋出身者らしいと聞いて関心を覚えた私も、その地区で牧場を営んでいる古老に 案内を頼み、現地を訪れてみた。

釧路から古老の牧場まで車を飛ばして一時間、さらに草深い林道を三十分走り抜け、 車がエンコした後は歩いて十五分ほどでたどり着いた所が長谷川氏宅だった。今だか らこそ簡単に行けるが、釧路から三十・以上もある道なき道の昔、こんなところにど うして入植したのか。

この地域は、天然記念物のタンチョウ鶴が幕末から明治にかけての乱獲で絶滅寸前に 追い込まれ、わずか十数羽が生き残って保護された所でもある。それだけ湿原の奥深 くにあって人目につかない、今でも秘境の面影が濃い。

鬱蒼(うっそう)とした原始森の中で、長谷川氏宅の一角だけが切り払われて平地と なっていた。湿原に注ぐ小さなチルワツナイ川が近くに流れており、森かげで鳴く カッコウやウグイスの声がさわやかな別天地だった。廃屋とはいえ牧舎風のモダンな 山荘で、釘付けにされた窓から中をのぞくと、ホコリにまみれたランプや朝日新聞と 読める古新聞が散らばっていて、まだ生活の匂いが残っていた。

案内してくれた古老の話だと、長谷川氏は同地域の入植者たちとは別格な存在だっ た。大変な資産家で、当時では珍しい外国製の機械力を使って開墾し、バターやチー ズまで生産していたという。東京では老舗を継ぐ身だったようだが、都会生活に幻滅 を感じ、自給自足の生活を確立しながら、あえて時流に抗して自己の信念を探求し続 けた生活態度は、当時の普通の人々には理解を超えた存在だったらしい。

こんなわけで長谷川氏は地元の農民とはあまり交流がなかったが、中央の知己や人づ てに氏を慕ってくる青年たちの姿は戦前から戦後を通じて絶えなかったという。その 中の一人、北海道詩人協会に属し現在、道北の小さな町で教員をしている吉田徳夫氏 は、戦後の釧路在任中に長谷川氏の山荘に通った思い出を「湿原の哲人」と題して廃 屋発見後、次のような一文を北海道新聞に寄せている。

…二階のベランダに通じる階段のある玄関。一部は土間になった居住室は食堂兼用 で、奥の方に黒光のスタインウェーのピアノ。壁面を埋め尽くす蔵書に圧倒された初 対面の日。ランプを囲む夕食時の語らい。食後の奥様の伴奏による合唱…

当時の雰囲気が生き生きと伝わってくるが、道子夫人は旧上野音楽学校出身の才媛 で、ある時、人に頼んで札幌の専門店に楽譜を注文したら「北海道にバッハの平均律 を弾く人がいるの」と店員が驚いたという。この評判は地元にも伝わり、戦後の一時 期、北海道教育大学釧路分校の音楽講師に要請されて教壇に立つことになった。

湿原の一角に鶴のように優雅に舞い降りた夫妻は、俗世間から超然として、自らの舞 いを舞い続けていた。が、ある日突然、光二氏が体調を崩したのが原因で、東京へと 飛び去っていった。その時期がいつだったか、案内してくれた古老もまったく覚えて いなかったように、最後まで地域の人たちとは没交渉だった。

東京の親交のあった人によると、光二氏が亡くなったのが昭和五十年、道子夫人が後 を追うように逝ったのが昭和六十二年だった。鶴居村の廃屋は、今は遺族の管理下に あるらしいが、詳しいことはだれも知らない。ただそこへ通じる道は人も通わないの で一面夏草に覆われ、一橋ロマンの夢の跡も忘却の彼方に沈もうとしている。

私はこの湿原の廃屋に対面して、ふと一橋校舎のある東京の国立、小平の森と共通す る神秘的な雰囲気のようなものを感じざるをえなかった。
あの青春の学生時代、朝もやの漂う国立の森の中を行きつ戻りつして思索にふけった 日々。小平の「命の森」を突き抜け、ベートーベンやドボルザークを絶唱して歓喜に 浸った夜。いずれも神秘の森がわれわれの精神を高揚させ、青春を謳歌させてくれ た。

しかし、長谷川氏の生活には今なおナゾの部分も多い。徴兵は来なかったのか、酪農 経営は成り立ったのか。そんな世俗的な詮索は棚上げにしても、氏が関東大震災で阿 鼻叫喚(あびきょうかん)の地と化した東京に見切りをつけて、釧路湿原の奥深くに 母校の神秘的な森の雰囲気を追い求めたのは純粋だった気がする。

近年、国立と小平の地をそれぞれ訪れてみたが、母校の周囲は都市化し、ぎっしり住 宅に埋め尽くされ、かつての森の面影はなかった。かくいう私も卒業後、日常的な生 活に追われるまま青春時代の夢はしぼみ、ダラダラと定年と還暦を迎えてしまった。

長谷川氏が時流に逆らい、孤高の中で自らの夢を徹底して実践し、財産や地位を顧み ず湿原に生きようとした勇気は、やはり敬服に値しよう。これぞ一橋ロマンの神髄で はないかと、同窓会の記念号を借りて中和寮、一橋寮時代の仲間の皆さんに、青春時 代の思い出を分かち合う話題になれば幸いである。