ある地方紙の廃刊に思う

岡田 光正

北海道のある老舗ローカル紙「北海タイムス」が9月1日、経営資金の途絶から札幌 地裁に自己破産を申請し、戦後52年の歴史に幕を閉じた。
最後の新聞となった2日付朝刊一面に「きょうで休刊します」の大見出しで読者に別 れを告げる社告が掲載されたが、同社役員が記者会見で「北海タイムス社の理念、理 想を承継していく新聞があってほしいという願いから、あえて『休刊』といわせてほ しい」と述べたように、再刊の見通しのない廃刊である。

老舗といいながら戦後の半世紀余の歴史しかないのは、大戦末期の政府による強引な 「一県一紙」新聞統合政策があったからだ。このため戦前からの歴史を持つ地方紙の 多くが戦争で中断され、戦後再出発を余儀なくされている。
ただ全国紙は本州大都市圏を基盤に複数の存続が許されたが、多くの地方紙はそれぞ れの県、地域内で一紙に統合された。北海道内でも昭和17年(1942)11月を 期して、道内11紙が「北海道新聞」1紙に統合されたのである。

政府の戦時言論統制の窮余の一策だった「一県一紙」体制は、3年足らずで敗戦に よってあえなく瓦解した。当時は極度の物資不足、インフレの激化などで、新聞発行 には困難な条件下にあったが、民主化と言論の自由への国民的な熱望に支えられて、 全国津々浦々に地方紙の発刊ブームが巻き起こった。
道内でも終戦直後の昭和20年10月から同22年にかけて20数紙が発刊されてい る。ここでいう「北海タイムス」の前身「新北海」は、同21年8月に誕生した、新 興地方紙の一つだった。

戦後生まれの地方紙の多くが淘汰されている中で、いま「北海タイムス」の廃刊が大 きな関心を呼んでいるのは、同紙の歩みが北海道における新聞業界の興亡史そのもの で、新聞競争のすさまじい裏面を改めて見る思いがするからである。
もともと「北海タイムス」という題号は、統合紙「北海道新聞」の一員である主力新 聞のものだった。その旧「北海タイムス」は戦前から札幌を基盤に全道に進出、統合 11紙の中でも自他ともに抜きんでいた。
だから北海道新聞社長には旧北海タイムス常務の東季彦が選任され、本社も札幌のタ イムス社屋に置かれ、東京・銀座のタイムス支社もそのまま使われたように、統合新 会社にタイムスの影が色濃く残っていたのは否定しがたい。

戦後いち早く札幌から新興紙の名乗りを上げた「新北海」の社長の山口喜一も、統合 直前まで旧北海タイムス編集局長だった。北海道新聞側はすぐさま別会社「夕刊・北 海タイムス社」を設立して、自社の資材、要員を送り込んでこれに対抗した。
ところが、相対抗していた「新北海」と「夕刊・北海タイムス」両社が24年、急 きょ合併して新会社「北海タイムス」を設立した。旧北海タイムス内にあった統合時 のシコリが表面化したともみられ、道内新聞界に複雑な波紋を投げかけた。

当時は統合間もないこともあって「北海道新聞」の名前よりも、明治以来続いていた 「北海タイムス」に愛着を感じる道民が多く、新興「北海タイムス」はたちまち全道 に勢力を伸ばしていった。
全盛期には札幌、旭川両本社の下に50か所以上の支社・支局を擁し、18の地方版 を製作、20万部を超える発行部数を誇った。北海タイムスと北海道新聞の両社はそ の後も道内主力紙の地位の争奪をめぐって激しい競争を演じていた。

その流れを変えたのが、皮肉にも34年の朝日、毎日、読売3社による札幌現地印刷 であり、それを契機とする北海道への積極的な進出である。それ以前の全国紙は、青 函連絡船経由の鉄道便輸送に限られており、札幌配達で1〜2日遅れが当たり前で地 元紙との速報戦では到底勝負にならなかった。
当時、駅の即売スタンドでは朝日、毎日、読売の全国紙がいずれも「東京新聞」と呼 ばれていたほど、道民にとっては珍しい‘異国の新聞’だった。

いわば津軽海峡が全国紙の進出を阻む地元紙の「天然の障壁」になっていたのであ る。しかし、昭和30年代初めに米国で実用化されたファクシミリによる新聞の遠隔 地向け電送技術が、北海道を新聞の別天地とすることを許さなくした。
それまで道内主力紙の座を争っていた「北海道新聞」と「北海タイムス」両紙ばかり でなく、その他の地元紙もそれぞれ全国紙の底知れぬ脅威に直面して、自らの経営基 盤の強化に専念せざるを得なくなっていた。

ファクシミリに端を発した新聞の技術革新は、とどまることを知らなかった。昭和4 0年代にはいると、新聞発祥以来使われてきた鉛の活字が次第に製作現場から追放さ れ、電子的な植字に全面的に入れ替わっていく。
鉛による炎熱労働、環境汚染を防止する時代の要請もあったが、なによりもコン ピューターで送稿から編集、印刷まで一貫管理ができ、経営近代化にも計り知れない 効用をもたらしたからである。

技術革新を達成するために新聞各社は、従来使用していた活字、輪転機のすべてを廃 棄した。そして新しい設備を導入するため、優秀な人材の養成と莫大な経費を惜しげ もなく注ぎ込んだ。こうして生き残りをかけた新聞業界の競争は、単なる販売部門だ けでなく、全社一体となった総力戦に発展していった。
一般に全国紙と地方紙の対決では、人材、資力のいずれの面でも規模の劣る地方紙の 不利は免れない。まして北海道は長い間、津軽海峡の防壁内に安住してきただけに最 新技術の電子の波に破られ、全国紙が競って進出してきた時から、これまで経験した ことがないような激しい戦場と化したのである。

その結果、全国紙三紙は目標には及ばなかったものの、それなりのシェアを道内に確 保した。また「北海道新聞」は道内主力紙の地位を守り抜き、激戦場から比較的離れ た室蘭、帯広、釧路、根室などを基盤とした各地方紙も生き残った。
一方、札幌、旭川に本社を置き、全道に支社、支局網を張り巡らせていた「北海タイ ムス」は、販売戦のアオリをまともに受け、急速に体力を消耗させていった。近代化 は小規模ならなんとか対応できるが、タイムスの規模では苦しかったようだ。

この間、同社は札幌都心部にあった本社屋を売却して副都心部に移転、社内合理化と 事業の多角化に乗り出すなど、何度か必死の再建努力を試みた。だが、その方法を 巡って経営陣の交替をひんぱんに行ったことが、一層体力を弱まらせた。
近年は資金を導入するために社外からオーナー社長を迎えたことで、プロパー役員と の対立を生み、この6月にはオーナー自ら休刊宣言を出して辞任するなど、混迷を極 めていた。今回の廃刊決定も社長不在の中で行われ、伝統ある新聞社としては異例の 破局となったのである。

ひるがえって日本の新聞界の現状を見ると、このところ地方紙の倒産が増えている日 本新聞協会加盟紙に限っても、1990年代に入ってから関西新聞(91年4月)フ クニチ新聞(92年4月)、東京タイムズ(同年7月)、日刊福井(93年1月)栃 木新聞(94年3月)、新大阪(95年7月)と毎年のように休、廃刊が出ているこ とは、異常な事態と思わざるを得ない。
いずれも果てしない設備更新による経費増大に対し、収入がバブル後の不況長期化で 追いつかず、慢性的な経営悪化に苦しんでいる。そこへ弱肉強食の過当競争の渦には まり、脱落していったという図式が共通している。

このままの状況で推移すれば、新聞業界は近い将来、金融業界と同じようなビッグバ ンに巻き込まれる恐れなしとしない。なぜならば、あまりにも日本独自の慣行やシス テムに守られて、新聞業界はこれまで発展してきたからである。

第一に、先進諸国では例を見ないほど1紙当たりの部数が多いことである。いま全国 紙は数百万部から1千万部の発行部数を誇っているが、一党独裁の社会主義国党機関 紙を除いて、世界でこれほどの部数を持つ新聞が多い国はない。
米国のニューヨーク・タイムズ85万、フランスのル・モンド36万、英国のザ・タ イムズが34万程度と、いずれも先進国の一流紙は日本の中規模の地方紙並みであ る。

第二に、こうした大部数の保持を可能にしている秘密は、日本独自の個別配達制度に ある。諸外国にも宅配制度はあるが、新聞代のほかに配達料を加算されたり、配達時 間も遅れることが多いので、日本ほど普及していない。
これに対して日本は独立経営の販売店が各社別に組織され、部数の拡張を競い合う仕 組みとなっている。販売店側は業績に応じて収入が増え、新聞社側は月極めの予約が 確保されるから経営の安定に役立つことになる。
しかし、この個別配達制度がいま厳しい試練にさらされている。バブル期から深刻化 した配達員の人手不足で、労務費が安くて済んだ以前の「新聞少年」はほとんど姿を 消し、主婦、外国人労働者などで何とかやりくりしているのが実情だ。

第三に現在、新聞は公益性維持の観点から、メーカーが小売価格を決めることができ る再販指定商品として、価格の自由競争から守られている。それが公正取引委員会に よって新聞も自由価格にすべきだと、見直しの対象とされるようになった。
もし新聞が再販指定商品から除外されると、購読料の自由競争が激化し、新聞社と販 売店の安定した収入が脅かされ、現在の個別配達制度そのものが瓦解しかねない。
そうなれば世界に誇る新聞の普及率、一紙当たりの発行部数の多さも一場の栄華の夢 となろう。

新聞各社があくなき部数信仰、それを実現するための過当競争をいつまでも続けてい けば、いずれ多くが破綻せざるを得ない。「北海タイムス」ほか地方紙の墓標が、そ のことを物語っている。