拓銀消滅から見えたもの

岡田 光正


予想外だった地域への打撃


北海道の開拓と産業発展とともに歩んできた北海道拓殖銀行(略称・拓銀)は、98年11月13日、創業100年の栄光を目前に全機能を停止した。
 翌週明けから道内の拓銀旧店舗の多くは、営業を譲渡した北洋銀行(以下、北洋銀の看板に掛け換えられ、表面上は何事もなかったかのように業務が続けられている。

だが、深層にまで立ち入って観察して見ると、ほぼ1世紀にわたって北海道に君臨してきたメーンバンクの消滅が、北海道経済に与えた影響は予想外に大きく深刻なものだった。
拓銀が実質的に破綻した昨年11月から今日までの約1年間で、同行をメーンバンクとしてきた道内企業の倒産は112件、負債総額は1兆8千億円を超えた。同時期の全道倒産負債総額の8割強が拓銀関連企業で占め、その影響力の大きさが分かる。

生き残った関連企業でも後継の北洋銀、その他の金融機関が少しでも貸し渋れば、連鎖倒産が続出することが予想され、北海道全体が破産する恐れなしとしない。

例えば、道内産業界でそれぞれ代表的な地位にあった土建業の地崎工業と、小売業の丸井今井百貨店だ。いずれも北海道開拓時代からの老舗企業で拓銀との密接な関係から長期、短期を含めて巨額の債務があり、北洋銀行はそのまま引き継ぐのに難色を示していた。

しかし一部でも拒否されれば、たちまち日常資金に不渡りが出て倒産に追い込まれるのは必定だ。地崎は全道に中小の下請け業者を抱え、丸井も札幌、小樽、苫小牧、室蘭、函館、旭川、釧路の主要都市商店街の核になるデパートを経営している。両社が倒れれば、全道の土建業、小売業関係者の生活を直撃することになりかねない。

結局、堀北海道知事のあっせんで当面、債務は道内各金融機関が分担して猶予する代わり、両社は役員体制を刷新、大幅なリストラを断行して経営再建に努力することになった。だが両社とも巨額の債務はそのまま残されており、猶予期間内に成果が上がらなければ、経営不安は一挙に再燃してこよう。


冷静だったXデーの対応


拓銀の破綻は正に地域経済に壊滅的な打撃を与えたが、大蔵省など行政当局はこうした成り行きを当初から予測していたのだろうか。近年の相次ぐ地方銀行、中小証券会社の破綻に際しても、歴代大蔵大臣は再三「日本の金融システムを守るため、少なくとも都市銀行の大手20行は1行たりとも潰さない」と公式に言明していた。

それが日本版ビッグバン(金融改革)の進行で都市銀行、大証券といえども不良債権処理ができないようなら退場もやむを得ないと、いつの間にかトーンダウンしていく。拓銀が最後の生き残りをかけて臨んだ道内地方銀行のトップ北海道銀行(以下、道銀)との合併交渉も、97年夏までに破談すると、大蔵省幹部は「もう面倒見切れない。ご自由にやって欲しい」と冷ややかにサジを投げたという。

こうした空気はお膝元の東京ではいち早く察知され、拓銀の首都圏各行の預金流出に拍車がかかり、市場では外資系ヘッジファンド(投機的投資会社)の格好の餌食となって拓銀株は徹底的に売り浴びせられた。

11月中旬に入ると、拓銀は日常的に行っているコール市場(短期資金貸借市場)からの資金調達にも事を欠き、ついに運命のXデー(17日)を迎えたのである。
中央から遠く離れた北海道では政府から見捨てられていたことなど知る由もなく拓銀の破綻は道民にとって正に「寝耳に水」だった。早朝からこのことを報じるテレビ、新聞の号外に、預金者は全道各地の拓銀店舗に殺到した。

しかし「手持ちの預金は全額保護され、北洋銀に自動的に移し換えられる」…という行員の必死の説明に納得したのか、多くの人はそのまま引き返した。

私もオットリ刀で札幌中心街にある拓銀本店に駆けつけたが、なお解約を求める預金者がカウンター前のフロアに立錐の余地なく座り込んでいた。一様に押し黙って順番を待っている異様な姿に、これが「平成の取り付け騒ぎだ」と直感した。

昭和恐慌時のような混乱がなかったのは、拓銀行員の落ち着いて礼儀正しい応対とテキパキとした事務処理に負うところが大きかったように思う。事務処理が閉店時間をオーバーすると、行員が一人一人裏口まで案内して「ご苦労様でした」と頭を下げていたが、それも当時の険悪な空気を和らげていた。


誤算だらけの政府の政策転換


しかし、今でも疑問に思うのは二転、三転した政府・大蔵省の態度だ。初め日本の金融システムを守るために、都市銀行は1行たりとも潰さないと胸を張っていたのが、次に世界的な金融ビッグバンを乗り切るためには、大手の都市銀行といえども自助努力のないものは淘汰されると突き放した。

その結果、拓銀の破綻が地域経済の崩壊まで進むという思わぬ事態に慌て、今度は巨額な公的資金を注入してまでも、銀行救済に本腰を入れようとしている。これでは右往左往させられた道民はもとより当事者の旧拓銀行員も、一体なんのために振り回されてきたのかと思うと腹立たしい限りである。

恐らく政府・大蔵省は各銀行の不良資産の処理が思うように進まないのに「活」を入れようと、これまでの護送船団方式から自由競争の市場主義導入への政策転換を図るテストケースにしたのではないか。

その具体的な意思表示として、大手20行の中で預金量最下位で業績不振にあえぐ拓銀を護送船団からあえて外す選択をした。当初はそれまでの地方銀行の破綻と同様さしたる影響は出まいと甘く見たように思う。その理由として拓銀は北海道と中央の二股かけていた「特殊な都市銀行」であり、北海道は拓銀がなくなっても地元銀行や政府系の金融機関を束ねれば、なんとか補完できると計算したのであろう。

しかし、結果は北海道の地域経済に致命的な打撃を与えたばかりか、全国的に金融不信が波及し、銀行の貸し渋りや消費の減退まで招いた。
歯止めのかからぬ不況の深刻化に、このままでは「日本発世界大恐慌」の引き金になるという国際的な非難を浴びるに至って、政府は再び一転なりふり構わない「金融機能安定化」実現へと躍起となっている。


特殊銀行としての生い立ち


政府・大蔵省が拓銀処理後の見通しを誤った原因は、皮肉にも破綻しても大丈夫と読んだ「特殊な都市銀行」にある。それは拓銀の特殊銀行としての生い立ちからきているが、政府の長期信用銀行の破綻処理にも共通したものが感じられる。

98年末にかけて相次いだ日本長期信用銀行(長銀)、日本債権信用銀行(日債銀に対する特別公的管理(一時国有化)をめぐるゴタゴタも、拓銀が特殊銀行として設立されたルーツと重ね合わせて見ると、背景と処理法が似ていて興味深い。

拓銀が設立されたのは、エゾ地が北海道と改名されて明治政府の開拓政策がようやく本格化してきた1900年(明治33年)4月のこと。当時は年利2〜4割の高利で荒稼ぎする業者が横行、とても地道な開拓事業ができる環境になかった。

道内経済界の要望によって前年制定された北海道拓殖銀行法に基づき、年利1割2分の長期低利の資金を供給する国策的な銀行として生まれたのだった。

当時の拓銀は預金を元手に貸し出す普通銀行とは異なり、北海道の広大な土地を担保に、債権発行による資金調達が認められた特殊銀行だった。このため豊富で潤沢な資金がインフラ整備、農地造成などに注ぎ込まれ、開拓の基盤を築いた。

1939年(昭和14年)の北海道拓殖銀行法の改正で、拓銀は長期資金ばかりでなく短期運転資金の貸出も認められ、拓銀は特殊銀行と普通銀行の両面を兼ね備える強力な銀行に成長した。戦争末期には道内の金融機関を次々と吸収して全道1行体制をも確立した。

そうした拓銀の屋台骨に組み替えを余儀なくされたのが戦後である。1950年に特殊銀行から普通銀行に転換、、1955年には普通銀行の中でも全国基盤の大手行が属する都市銀行に加入と、息つく間もない脱皮が迫られ、かつての特殊銀行の権益にアグラをかく時代は終わった。


植民地的発想だった初期人事


以後、拓銀と時代の不幸なすれ違いが続く。日本経済の高度成長時代には基幹産業だった炭鉱の相次ぐ閉山、バブル期の終末になってから始めた本州や海外不動産の買いあさり…これらが積み重なって命取りになる不良資産の山を築いてしまった。

都市銀行になってからも万年シンガリを務める不名誉を挽回しようと、焦りが冷静な情勢分析を欠かせた。手綱を取る経営トップ、役員はただハッパをかけるだけだった。すでにバブルが終わり、他の都市銀行が撤退を開始していたことが見えなかったとは、経営者として不明の至りといえよう。

当時の経営陣が損害賠償請求訴訟で責任を問われているのは当然だが、また管理職クラス以下一般行員もおかしいと気づきながら全然声を上げられなかったのも奇妙である。
破綻処理の際に行員の行動が見事なほど規律を保ち、混乱を回避したことを思うとこの点は銀行ばかりでない日本的経営にひそむ共通の欠陥なのかもしれない。

拓銀が破綻したのは、戦後都市銀行に衣替えしていながらも、行員気質の中に開拓時代の特殊銀行的な特権意識を引きずっていたことも一因ではなかろうか。
設立時の初代頭取に任命されたのは、山形県知事で当時54歳の曽根静夫だった。大蔵省貸付金取調委員長、台湾総督府の民政、財務局長といった経歴からも分かるように行政、財政両面に通じたバリバリの現役内務官僚で、政府が北海道拓殖の金庫番として送り出したエースである。

北海道を政府の保護監督下に置き、長期の開発資金を供給する特殊銀行としての拓銀には打ってつけの人材だったが、中央従属の厳しい貸付基準は地元経済界の期待に背くものだった。おまけに「札チョン」第1号で、毎年10月から翌年4月にかけて東京の家族の元に引き揚げてしまう態度もあまり評判がよくなかった。

二代目頭取の美濃部俊吉は大蔵省理財局銀行課長から35歳の若さで赴任した。曽根の3年そこそこの任期に比べ13年余も在任、拓銀の営業範囲を農地、道路、港湾のインフラ整備から、商工業全般に拡大し、拓銀飛躍の基礎を造った。

その功績が認められ、同じ政府保護監督下の特殊銀行だが、拓銀よりも一回り大きい朝鮮銀行総裁へと栄転した。後継の拓銀頭取には朝鮮銀行理事の水越理庸が任命された。

余談だが、俊吉の弟は学者で「天皇機関説」の達吉、その達吉の息子が元東京都知事の亮吉である。


統制経済的な金融システム


拓銀設立時における初代、二代頭取の人事からもうかがえるように、大蔵省の直轄支配だった特殊銀行の体質、人脈が今日、拓銀ばかりでなく、長銀、日債銀の破綻をも運命づける結果になったと思えてならない。

戦前の日本の金融システムは、政府の優遇措置を受けて国策を推進する特殊銀行と商業ベースで預金・貸出業務を扱う普通銀行に大別された。このうち特殊銀行はそれぞれ単独法規を持ち、設立に当たっては政府出資をはじめ手厚い保護を受けた。

その業務範囲もきちんと決められ、貿易為替業務は横浜正金銀行、長期信用業務は勧業銀行、興業銀行、農工銀行などに振り分けられた。
「内地」の外の長期信用業務に関しては地域別に北海道拓殖銀行、朝鮮銀行、台湾銀行が設立されたが、これら3行は未開地の開拓、植民地の経営という点では同じ基本的発想の特殊銀行だった。

敗戦とともに朝鮮銀行と台湾銀行は閉鎖され、拓銀も1950年の北海道拓殖銀行法廃止に伴い、銀行法に基づく普通銀行に転換した。また同年には勧業銀行法、興業銀行法、農工銀行法も同時に廃止され、これで戦前国策銀行として権勢を振るった特殊銀行はすべて消滅した。

しかし52年、サンフランシスコ平和条約が発効して日本が経済再建を最重点国家目標に掲げるに当たり、債券を発行して長期資金を供給できる金融機関の設立が求められ、新たに長期信用銀行法が制定された。

同法に基づく長期信用業務は既設の興銀と新設の日本長期信用銀行(長銀)の2行に割り当てられた。従来から金融債発行を認められていた拓銀と勧銀は、以後普通銀行の業務に専念することになり、戦後日本の金融システム再編成が着々と進められていった。

57年に長期信用銀行がもう1行追加された。かつての朝鮮銀行の関係者が設立した日本不動産銀行で、後に日本債権信用銀行(日債銀)と改名した。こうして長期信用銀行トリオといわれる興銀、長銀、日債銀の3行がそろい踏みして、基幹産業への優先的な資金配分を行い、日本の高度経済成長を推進した。

同時並行して大蔵省は長期信用銀行、普通銀行、信託銀行、その他金融機関の各業務分野を明確に区分、それぞれの預金・貸出金利まで細かく指示し、世界に名だたる「護送船団方式」という統制経済的な手法の金融システムを確立したのである。


抜けない古い体質と縄張り争い


長期信用銀行トリオの中で今回破綻した長銀、日債銀の体質を見ると、あまりにも共通の病弊が巣食っていたのに驚かざるを得ない。長期信用銀行法の申し子として生まれた長銀は、初代頭取が産婆役の大蔵省から天下り、2代目以降は普通銀行に転換させられた勧銀系というのも何となく「裏」を感じる。

その4代目頭取で、30年余にわたって頭取、会長ポストに居座り、おまけに9億円を超える退職金をもらって世間を驚かした「長銀のドン」のような存在を、大蔵省が黙認していたというのも解せない話である。

日債銀も故金丸信自民党副総裁の膨大な隠し資産がバレて有名になったが、その他にも政治家の隠し金庫になっているとの噂は絶えなかった。一時は経営危機から脱して安定したと見られていたのに、98年暮れ突如として金融監督庁に債務超過の判定を受け、政府から特別公的管理を申し渡された。

日債銀は大蔵省、日銀でトップを固めていただけに、当事者の日債銀はもとより、指南役の大蔵省も経緯が読めず呆然としていたという。

戦前の特殊銀行の中で新設の長期信用銀行に人事的コネもつけられず、ひとり普通銀行に転換させられたのが拓銀だ。そのためでもないだろうが、戦後もしばらく慣例となっていた大蔵省出身者の頭取受け入れを返上、このところ4期続けて自行出身者を頭取に選任していた。

97年11月、政府が積極的に救済に動かず破綻を迎えた時、拓銀行内から期せずして「大蔵省から見せしめにされた」という鬱憤とも絶望ともつかぬ声が上がったがこうした大蔵省との関係が行員の頭にあったからであろう。

営業譲渡先銀行を巡って大蔵省は道銀を希望したが、河谷拓銀頭取は「道銀では行内が収まらない」として自ら北洋銀を指名、最後の意地を見せた。日銀がそれとなく北洋銀なら協力する意向を河谷頭取に伝えていたことも判断材料になった。

因みに藤田道銀頭取は大蔵省証券局長出身であり、武井北洋銀頭取は日銀札幌支店長出身である。 ともあれ、突如として行われた日債銀の特別公的管理移行は、これまで絶対的だった大蔵省の優位が崩れたことを意味する。98年4月の日銀法改正で独立性を強める日銀、同年6月に発足したばかりの金融監督庁、巻き返しを図る大蔵省…金融行政を巡る仲間内の壮絶な縄張り争いが始まった。

このため政府がいくら公的資金注入に応じるよう呼びかけても、今のところ積極的に手を上げる都市銀行はない。だれが最終的に主導権を握るのかという模様眺めと、監督庁の調査で丸裸にされ、新たな「見せしめ」にされてはたまらないとの警戒心が相半ばしているようだ。


地域銀行に再生の機逃がす


拓銀破綻の直接的原因は、なんといっても同行内部に「特殊銀行」から受け継いだプライドと「都市銀行」の中での焦りが加わって、過剰融資への暴走が食い止められなかったことにある。

特に拓銀が普通銀行の中でもAクラスの都市銀行にランク付けされ、常に最後尾にいたことが、その焦りを倍加した。他の都市銀行がいずれも東京・大阪の大都市圏に営業基盤を持っていたのに対し、伝統的地盤が北海道であることに劣等感さえ抱き、一時は東京を中心とする店舗拡大に狂奔し、道民の不満を買った。

昨年春、道内地方銀行の雄である北海道銀行との合併交渉の過程で、北海道に営業基盤を絞り込むスーパー・リージョナル・バンク(巨大地域銀行)構想が取り沙汰された。しかし、拓銀の中の「関東軍」と呼ばれた東京本部が、苦労して構築した本州店舗の撤退に最後まで抵抗した。道銀内部にも拓銀との合併に強硬な反対があって交渉は決裂した。

しかし、このスーパー・リージョナル・バンク構想は都市銀行の地域特化型戦略として、米国のネーションバンクなどが複数の州で業務拡大に成功している。現に日本でも東海銀行とあさひ銀行が提携して、金融ビッグバン時代の新しい戦略として具体的な検討を始めている。

ここでも拓銀の中で時代の先見性を妨げる体質が働いたとすれば、なんとも惜しまれる話だ。もっとも長期信用銀行に生まれ変わった長銀、日債銀も拓銀と1年遅れで破綻の道連れになったのだから、ともに特殊銀行の体質を克服できず招いた運命の皮肉といえよう。


破綻1年を見つめ直す


合併交渉で生じた相互不信から拓銀は結局、道銀よりも下位の北洋銀を営業譲渡先に選び、98年11月16日、北洋店での業務移行を見届け、98年の歴史に自ら幕を引いた。北洋銀は拓銀の道内109店舗と預金約2兆7千億円を引き継ぎ、これまで第2位だった道銀を抜いて一躍、総預金量5兆円規模の北海道のトップバンクになった。

関脇からいきなり横綱になったようなもので、北洋銀としては今後も拓銀関連企業の処理、道銀やその他の道内金融機関の追撃などの問題が山積しており、トップの座を守るのは生易しいものではないようだ。

一方、拓銀の本州59店舗、預金約6千億円は、東京を本拠とする中央信託に譲渡された。毎日のように首都圏のテレビで「都市銀行と信託銀行が結び付いた新しい形の銀行」とのPRを流しているが、こちらも金融自由化の苛烈な競争を乗り切るには多くの試練が待ち構えている。

このところ政府の金融政策、法律、機構が猫の目のように変わり、金融機関の合従連衡、存廃も日常茶飯事となった感がある。国会では、野党側が破綻銀行を一時国有化させる「金融再生法」を政府に丸呑みさせたと勝利宣言すれば、政府・与党は60兆円の公的資金を積み上げた「金融早期健全化法」で銀行を守れると胸を張る。

その裏で金融行政の主導権争い、ひいては政権争奪を巡る権力闘争が与野党、各省庁を巻き込んで陰湿な形で展開されている。これでは本当に景気回復、雇用確保、国民生活の安定が実現できるのかといわざるを得ない。

こうした混沌とした状況の中では、ただ表面的に日々のニュースを追っているだけでは、物事の本質はつかみにくい。
大手都市銀行の一角が崩れた、拓銀破綻の1年を振り返ることによって、いま再転換を迫られている日本の金融システムの歴史と実情を探り、その行方を見守っていきたい。