96歳の恩師が語る

岡田 光正

 昭和28年度に一橋大学を卒業した同期生たちの大半が来年中に古希(満70歳) を迎えるので、記念の文集をだすことになった。50年近く社会の各分野で活躍し てきた同期生は、ほとんどが現役を引退して限られた余生をいかに過ごすかを模索 している。この際、各自の足跡を振り返った感想文を書いてもらい、次の世代に伝 えるメッセージにしたいという思いが、文集制作の動機である。

 また高齢ながら今なお悠悠自適に人生を送られている学園時代の恩師に、当時の 思い出を通して先輩としてわれわれの今後に処すべき道の助言を承ることにした。 その一人が旧制東京商科大学では専門部、新制一橋大学では商学部で数学理論の講 座を担任されていた久武雅夫教授(現在は名誉教授)である。

 インタビューは99年7月、東京都調布市深大寺にある先生のお宅に私を含め同 期生3人が訪ね、口述筆記する形で行われた。高齢で目、耳がほとんどご不自由の 体にもかかわらず、われわれの質問に対して一つ一つ丁寧かつ的確に答えられた。

 半世紀以上前の事柄を人名、年月ともに詳述する完璧な記憶力、教育のあり方に 言及する歴史的な理論構成など、これがわれわれと26歳も離れた老人の言葉かと、 度肝を抜かれた。

 こうした長老の存在は、多少のボケは「老人力」がついた証拠と甘える風潮に警 鐘となるかもしれない。人間の頭脳はいかに肉体的に老いても健在でいられる証明 になるからだ。

 以下は、久武先生に戦前戦後をまたぐ大転換期に学生生活や学園に起きた多くの 問題について、1時間余に及ぶインタビューの要約である。96歳という年輪の証 言が、なによりも重みを感じる。


健康と近況


 私は平成11年9月で96歳になります。これまで一橋教授陣の中で最長老は田 中誠二先生(法学)で、97歳で亡くなられました。
私も、もう1年生き延びることができれば、田中先生と同じ長寿記録になると頑張 っております。
 歳をとると病気がつきもので、私は慢性心不全という病気で月1回の割合で、病 院に行き薬をもらって治療しています。しかし今、一番困るのは老衰によって目、 耳が不自由になっていることです。

 目の方は、ここにあるテレビのような「ビジョン・スキャナー」という機械で印 刷物を拡大して映し、なんとか文字を読んでいるのですが、手紙のような書いた字 は形が一定でないので読めません。一般のテレビの映像は、ぼんやりだが音声もつ いているので、大相撲などイヤホンを使って楽しんでいます。(当日は名古屋場所 14日目だった)

 耳の方は補聴器を使っていますが、人によって補聴器が合う人とあわない人がる らしく、いくら大声を出されても意味が取れない場合があります。誰かが訪ねてき ても顔がぼんやり見える程度で、トンチンカンな答えをするものだから敬遠される ようです。私として一番寂しいのは、だれも話しかけてくれなくなることです。

 足はまだ20分くらいなら歩けます。だが目が不自由なので、段差があるところ では危ないし、自転車が来るのも見えません。健康のため自宅周囲の道路はなるべ く歩くようにしていますが、ちょっと遠くなると一人では行けません。もっとも神 代植物園に連れていってもらっても、肝心のバラの花がかすんで見えたのでは楽し めませんが…。

 健康法で君たちに勧めたいのは、ここにある電動式の「フット・バイブ」です。 青竹踏みのようにゴムのイボイボが張ってあるが、踏まなくても足を乗せているだ けで振動が足の裏を刺激し、夜よく眠れます。古希だというが、私から見れば君た ちはまだまだ若い。いろいろと健康法を工夫すれば90代まで仕事ができますよ。


飛行機を埋める


 戦争中、大学の兼松講堂は軍に接収されて飛行機のエンジン部品の生産工場にな り、専門部は陸軍通信学校として使用されていました。その専門部の校庭には飛べ ない偵察機が置かれ、通信機器を扱う訓練に使われていました。当時、授業がほと んどできなくなり、学生を勤労動員に連れて行くのが私の主な仕事でした。

 終戦となり、日本軍に施設を提供していた学校は進駐軍に接収されるという噂が 流れ、当時学長だった高瀬荘太郎先生が私を呼び、専門部の校庭に飛行機があるの はまずいから、どこか校外に移してくれないかと頼まれました。
 周りは鬱蒼たる松林で飛行機を隠すところはいくらでもありましたが、体育の時 間に学生30人くらいが綱で引っ張ったがビクともしません。穴を掘って埋めるよ りほかはないと、中和寮の寮生たちにも応援を頼み、総動員をかけて協力してもら いました。

 空腹では仕事にならないので、大学職員に近所の農家からサツマイモを買い集め させ、学生には食糧の心配なく3日3晩、昼夜兼行で穴を掘り、飛行機を埋めてし まいました。
 後で聞いた話では、進駐軍は空から見て飛行機の存在は知っていたそうですが、 なぜか専門部は接収を免れ、戦後は授業を支障なく行うことができました。

 近年になって小平の教養学部校舎が閉鎖され、旧専門部の校庭内に新校舎が建設 されることになりました。工事中に埋めた飛行機の残骸が見つかるのではと内心期 待していたのですが、何も出てこなかったようです。
 埋めた位置が中和寮に一番近い運動場だったため、工事に引っ掛からなかったと 思いますが、これで私の終戦直後の鮮烈な思い出はまた蓋をされてしまいました。


青大将を食べる


 食糧難に関連してもう一つショッキングな思い出があります。戦争中に空襲を避 けるため、家内の郷里に疎開させていた家族と家財道具が終戦になって戻ってきま した。私は中和寮の隣にある教員官舎に住んでいたのですが、狭くて家財全部が入 らなかったので、オルガンを中和寮の病室の廊下に置かせてもらっていたのです。

 そのオルガンの中にいつのまにか体長1メートル以上はある青大将がすみついて 大騒ぎになりました。そこで元気のいい寮生に頼んで追い出してもらったのですが、 後で聞いたら寮生たちはご馳走とばかり、皆で焼いて食べてしまったというので驚 きました。

 当時の食糧不足は今では想像もつかない深刻なものでした。寮の食事もサツマイ モが出れば上等の方で、ヒジキ、カボチャ、イモガラなど口に入るものなら何でも よかったという時代ですから、寮生たちも食糧調達にはさぞ苦労したでしょう。
 私たち教職員も大学からグラウンドを100坪ずつ区切った土地の割り当てを受 け、そこで食糧を賄うよういわれました。私もサツマイモを作ってみたが、肥料も なくただ土地を掘り返しただけだったから、いい作物はできなかったように覚えて います。


中和寮のルーツ


 私は昭和19年から24年まで専門部の学生寮である中和寮の寮監をしていまし た。当時、中和寮独自の制度として寮監の下に寮父がおり、寮生の悩みごとや個人 的な相談に応じていました。名前は今ちょっと思い出せませんが、専門部で漢文を 教えていた年配の先生が寮父で、寮生に接して話を聞くのはもっぱらその先生にお 任せしていました。

 寮の運営に関する監督上の責任は寮監である私にありましたが、中和寮は寮生の 完全自治を建前としていたので、私が監督するようなことはほとんどありませんで した。それに住居が寮のすぐ近くにあった関係で、子供たちがよく寮生に遊んでも らったり、寮祭には一家で招待されたりして親戚付き合いのようなものでした。

 このように中和寮が他の学生寮にない独自の運営をしていたのは、その生い立ち からきています。昭和2年4月に専門部が本科の学部(昭和5年9月)に先駆けて 国立に移転してきましたが、その陣頭指揮をとった堀光亀先生(交通論、校舎前に胸 像)は、新しい学園都市にふさわしい校舎と学生寮を作ろうと、自ら英国の大学都市 をつぶさに視察して歩き、その成果を生かそうとしました。

 こうして中和寮は英国流の紳士を養成するという先生の理念から、当時の学生寮 としては破格な一人一室の余裕ある住まいに設計されました。寮中央には寮生全員 を収容できる大食堂が配置され、ここで食事をとりながら自治と協調という社交の マナーを実践的に学ぶようになっていました。

 ところが、この理念が立ちいかなくなる事態が起こりました。昭和21年1月、 小平にある予科の一橋寮が火事になり、焼け出された寮生を一時中和寮に収容する ため、一人一室の原則を放棄せざるを得なくなったことです。
 そこで二人一室にして収容人員の倍増を図り、従来からの住人である専門部生は 2階に、新住人の予科生は1階へと区分けして、気風の違う両方が共存できるよう にしました。私が寮監として一番苦労したのはこの時ぐらいです。幸い専門部生と 予科生の良識で、さしたるトラブルもなく乗り切ることができました。

 小平の寮が再建されて予科生が引き上げた後も、戦後学生数の一貫した増加で中 和寮はしばらく一人一室に戻ることがなく、食堂で全員会食する光景も見られなく なりました。堀先生が掲げた英国流紳士への目標も古きよき時代の一コマだったわ けです。


商大で築かれた学風


商大で築かれた学風  大正9年4月、一橋人にしては待望の、官立大学としては初めての単科大学であ る東京商科大学が誕生、後の医科大学、工業大学などを輩出させる先鞭をつけまし た。当時は原敬首相率いる政友会内閣でしたが、歴代官僚出身者が引き継いでいた 文部大臣に民間人を起用して、多くの画期的な教育改革を断行したことが、今日の 一橋大学の性格づけになったと思います。

 文相に任命された中橋徳五郎は大阪商船(現商船三井)社長を務めた大物実業家 で、持ち前の実行力からまだ封建的な色彩が残る日本の教育制度の近代化を次々と 断行しました。

 高等学校に進学するには中学5年卒業という条件を、4年からも行けるようにし たり、官立の大学といえば総合大学方式の帝国大学だけだったのを、個性ある単科 大学も認可するなど、この人でなかったら実現しなかった難題でした。

 こうした時代的背景で東京商科大学の初代学長に就任した佐野善作先生(商学) は、自らの学問的な業績を上げるよりも、行政的な手腕に有能さを発揮された方で す。
 大正12年9月1日、関東大震災で灰燼に帰した一橋の校舎を、武蔵野の原野に 移転させ、壮大な規模で再建したり、当代一流の教授陣を確保するという偉業を成 し遂げられました。そのお陰で21世紀にも対応できる、一橋大学の磐石の基礎が 築かれたといっても過言ではないでしょう。


広い視野から多彩な人材を


 世間では商科大学というと簿記、ソロバンなど実務を中心に教えていると思って いたようですが、佐野先生は将来の総合大学に備えて、全国から優秀な人材を集め るのに奔走しました。例えば、福田徳三(経済史)、三浦新七(文明史)、左右田 喜一郎(経済学)の3人は、高商時代から佐野先生と行動を共にしてきた新進学者 ですが、一橋商学、経済学に哲学的視野を取り入れ、国際的なレベルまで高めまし た。また一般教養部門でもドイツ語の吹田順助、フランス語の内藤濯など、文学者 としても通用する先生を招き、商科大学ながら総合大学と変わらない教育を行った のです。

 その結果、商科大学卒業生といっても経済の実務知識を習得したとは限らず、英 語ばかり勉強して英語の卒業論文を書いて出ていった人もいます。私のゼミでもお 坊さんや著名な陶芸家になった人もいます。このように「商」に拘泥せず、広い見 地から人材を養成するという一橋の「学風」が商科大学時代から確立しました。

 昭和24年から新制一橋大学に切り換えられた際、一挙に総合大学を目指すべき だという意見が学内にありました。だが性急に推し進めると弱体大学になる恐れが あり、これまでのように一歩ずつ確実に進めようとの声が大勢を占めました。

 結局、24年は「商」「経済」「法・社会」の3学部でスタートし,翌25年にな ってから準備が整った段階で、法学部、社会学部が分離独立し,現在の4学部制にな りました。ただ4学部制になってちょっと心配なのは,互いに他の専門科目を勉強す るのに垣根ができた感がなくもないようです。昔は名前が商科大学でも1学部制だ ったから、自分の好きな科目を自由に勉強できました。

 だから大学を卒業しても文学者になったり,医者になったり、少なからず「変り種」 が生まれました。この伝統は今も生き続けていると思います。現在の学生さんには、 今後も広い視野から多彩な人材が育っていくよう期待しています。