46年ぶりに南先生を訪れる

岡田 光正


「南北会」両端のゼミテン


 本会は一橋大学南博ゼミナールの卒業生,在学生(大学院も含む)をもって 組織し、南教授及び第一期諸兄の発案によって、「南北会」と呼称します…と いう書き出しで始まる「南北会会員名簿」なる小冊子が、北海道新聞旭川支社 に務める岡田光正の手元に送られてきたのは、卒業後13年にもなる昭和41 年夏のことだった。

 その直前、編集子から「南ゼミ出身者が全国各方面で活躍しているのは喜ば しく、この際最北端の会員としてぜひ感想を寄せて欲しい」という依頼があっ た。現在、日本はおろか世界を舞台にしているゼミ仲間の状況ではそぐわない 感もあるが、当時北海道といえばまだ日本の「最果ての地」として珍しかった のかもしれない。

 そんなわけで南北会命名の一因となったことは光栄だが、当時第一期生で国 内最南端にいたのが、九州の日本パルプ工業(現王子製紙・宮崎県日南市)工 場に東京から転勤した吉元忠である。その後二人とも日本列島南北両端の勤務 が長かったため、南先生にお会いすることも、ゼミテンと交流する機会もほと んどなかった。

 今回、一橋大学昭和28年卒業生による古希記念文集編集委員会のメンバー に、たまたま南ゼミ南北両端の二人が選ばれたことから、久し振りに南先生に お会いして近況をお伺いし、何かお言葉を頂きたいということになった。

 二人とも先生と直接お話を承るのは卒業後初めてであり、溢れるような懐か しさを感じると同時に、46年間の空白をどのように埋めたらよいのか大いに 戸惑った。


超高層マンションで療養


 訪問のきっかけはヒョンなことから生まれた。昭和59年に九州から千葉 に引き揚げていた吉元は、今年6月の如水会市川支部総会に出席した際、南 ゼミ出身者が4人もいたことを初めて知った。大いに盛り上がって8月に市 川南北会を結成、記念写真を南先生宅に郵送した。

 こうした経過を通じて先生は一昨年、胃など腹部に腫瘍が出来て入院手術 されたこと、幸い早期発見のため順調に快方に向かわれているが、現在療養 中ということが分かった。ご自宅はこれまで研究所のあった原宿から、手術 した病院に近い佃島の超高層マンションに転居されていたことも初耳だった。

 思いもよらぬ事情なだけに、当方の都合でインタビューをお願いするのは どうかと思いながらも、吉元と岡田が代わる代わる、ご無沙汰のお詫びかた がた、先生のご都合を伺ってみた。結果は意外にも先生自らお電話に出て快 諾されたのである。

 ご新居は東京駅からほど近い佃島北端の都市開発区域に林立している近代 的な超高層マンション街の一角にあった。50階近くのお部屋に通されたが、 窓外の眺望の素晴らしさはともかく、リビング中央のソファーに端然と腰を かけ、にこやかに迎えてくれた先生のお姿にびっくりした。ご療養中だから ベッドサイドで休まれているかと思っていたが、ブルーのハイビスカス柄の シャツがよく似合い、一橋時代に学生の人気の的だった先生のカッコよさが、 ご高齢の今もそのままだったからである。

 また半世紀ぶりに顔を出した二人を覚えていてくれ、他のゼミ仲間の消息 も驚くほどの記憶力で質問された。このため短時間で辞去しようと思ってい たわれわれも、ご病状から近況、今後のお仕事の計画など多岐にたってお伺 いしてしまったが、先生は細い声ながら一つ一つ丁寧に答えてくださった。


海と江戸情緒にひかれて


 ここに引っ越してきたのは今年(平成11年)の3月16日。もう半年に なるね。30数年も住んでいた原宿を引き払って、こちらに来た一番の理由 は、お世話になっている国立がんセンター(築地)と聖路加国際病院(明石 町)の両方に近いからだ。

 平成9年の11月、入院して胃の手術を受けたまでは順調だったが、自宅 に帰ってから血圧が急に上がったりして、救急車で3度も運ばれる騒ぎを起 こした。血圧が安定したら今度は肺気腫になって呼吸が苦しくて困った。も う大丈夫と思うが、がんセンターと聖路加の両方に、治療のため毎月1回定 期的に通院している。

 それから毎週1回、訪問看護婦さんに来てもらって血圧その他の診察や、 入浴の介護を受けている。仕方がないことことだけど、ひとりで風呂に入れ ないのは情けないね。

 ここを選んだもう一つの理由は、ぼくは前から海が見えるところに住みた いと思っていたからだ。お天気の日は東京タワーからディズニーランド、千 葉の方までパノラマのように見える。それに羽田に離着陸する飛行機を見て いるのも飽きないもんだよ。

 もう一つ付け加えれば、ぼくの父親が京橋で南胃腸病院を開業していた関 係で、幼い時からこの辺の土地になじみがあるんだ。ここはマンション街に なったけれど、道路一本隔てて江戸初期の漁師町の面影がちょっぴり残って いる。

 名産の佃煮は天保8年(1837)創業の「天安」などの老舗が今でも店 を出していて、都心からのお客も絶えないそうだ。この辺の人に言わせると、 川の向こう側は「東京」で、こちらが本物の「江戸」だと胸を張っているよ うな昔気質が面白い。


自然流の健康法と日常生活


 魚河岸が近くて魚類はイキがいいし、野菜も新鮮なものばかりで買い物に はいいところだと思う。胃を手術して今は3分の1しか残っていないものだ から、食事は普通の人の3分の1から2分の1の量を、1日3回に分けて何 でも食べるようにしている。もちろん硬いものとか、辛いものは医者に禁じ られているけれどね。

 日中はなるべく寝ないようにしている。寝たきりになると食欲も落ちてく るから、こうして起きている方がいい。本も夜はなるべく読まないようにし て、昼間読むようにしている。厚くて重い本は持てないから、楽譜立てに本 を載せて、どのくらい読み続けられるか、毎日自分の能力をテストしている。

 疲れたら窓から外の景色を見ていると、自然と気が休まる。それにテレビ というものは、年寄りの生活には欠かせない楽しみだね。ぼくが今好きなの は、野球などのスポーツ中継、昔からある流行歌とか演歌とかの歌番組、人 気コメディアンのお笑い番組などだ。いわゆる教養番組というものは最近見 たことがない。

 <<先生は昔から大衆娯楽研究のために、積極的にミーハー的な映画、テ レビに関心を持たれていた。われわれも南ゼミの勉強課題の一環として、当 時天才少女として売り出したばかりの美空ひばりの人気アンケート調査を行 ったことがあったが、後に国民的歌手にまで成長するとは思いもよらなかっ た。>>


南ゼミ第1期生のころ


 太平洋戦争開戦の前年、昭和15年に米国コーネル大学に留学したぼくが 帰国したのは、終戦2年後の昭和22年だった。幸いその年から日本女子大 学で心理学の講義を担当、また翌年から東京商科大学の予科で心理学概論を 教えることになったのが、一橋との縁の始まりである。

 君たち新制大学生とは、昭和24年から社会心理学を教えるようになって からと思うが、当時前期の部長だった村松恒一郎教授(経済)から、一橋の 慣例として前期ゼミはアダム・スミスの「国富論」を原書で読むよう指示さ れた。

 しかし、教材は自主的に決める米国流の学風に慣れていたぼくは戸惑い、 それに経済学は専門外だから責任を持って学生に教える自信がないと、お断 り申し上げた。

 その代わり、経済学者であると同時に優れた社会学者、社会心理学者のベ ブレン(T.B.Veblen)の「有閑階級の理論」なら引き受けますと、 強引に認めてもらった。

 <<「生産を蔑視し、消費を美徳とする階級は、これ見よがしな誇示的消 費行動をとる…」。当時、食うや食わずの日本社会では想像もつかないユニ ークな理論だった。訳本もあったが、先生の熱心な原書講読の指導に触発さ れて、ゼミ有志が放課後も集まって熱心に議論したのも今は懐かしい思い出 である。非現実的と思えたベブレンのいう消費行動は、バブル時代の日本で は現実化し、有閑(レジャー)という言葉も時代変化で意味は違ってきたが、 すっかり日常生活化した。先生が相次いで提起した社会心理学上の新概念は、 いずれもその後の社会変化を解くキーワードになった。>>

「マスコミュニケーション」という言葉も初めどう日本語に直したらいいか 困って、君たちに省略語を考えてもらった。「マスコン」とか「マスコミュ」 ではピンとこない。どうせ縮めるなら「マコ」ではどうかと冗談でいったら、 それでは女性の名前と間違えてしまうと、沙汰止みになった。そのうち誰が 考えたか「マスコミ」が一般化した。

 ぼくの作った言葉で定着したのは「フラストレーション」。「挫折」と訳 す人が多かったが、ぼくは心理学的に考えて「欲求不満」とした。このほか コミュニケーションの「送り手」「受け手」も定着したように思う。しかし、 日本語化するのはなかなか難しい。「パーソナリティ」「ストレス」など、 カタカナ言葉で通ってしまう方が多い。


続「日本人論」に闘志


 ぼくが満80歳(日本式にいうと傘寿)になった平成6年、岩波書店から 明治維新以降今日までの、日本人の外国に対する自国意識の流れを集大成し た「日本人論」を出版した。

 これまで数十年にわたる学者生活で研究してきた日本人の生活・文化・心 理について千数百点にのぼる論著の中から代表的なものを選び、紹介したも のである。

 日本人論はこれで一区切りつけて、かねてからライフワークと思っていた 「天皇制」「日本人の性意識」の二大テーマに本格的に取り組む予定だった。 だが岩波から「外国から見た日本人論」も書いて欲しいと頼まれて、資料も あることから引き受けてしまった。

 退院後、体調もようやく安定してきたので「続日本人論」についての本を 90冊読んだ。あと20冊から30冊ぐらい目を通しておきたい。明治政府 から招かれて各方面の指導に当たった外国人、幕末から明治にかけて初めて 日本にきた外交官たちが、いろいろな角度から日本を見ているところが面白 い。

 今読んでいるのが「菊と刀」の現代日米貿易戦争版。翻訳物だけど、アメ リカ人の日本人論で経済のことばかりでなく、日本語や日本文化の問題まで 触れて、よく調べている。日本のビジネスマンにも参考になるのではないか。

 ぼくは幸いにも目はまだ衰えてないから、読書には自信がある。ただ手の 自由が利かなくなり、原稿を書くのが難儀になった。これからは誰かの助け を借りてでも、パソコンかワープロで文章を作り、今後も自分のライフワー クの目標達成まで、仕事は続けていきたいと思っている。

 <<大病後にもかかわらず、先生の泉のように噴出してくる気力の秘密は 一体何だろうか。自ら「ライフ・パートナー」と呼んでいる女優で奥様の東 恵美子さんとの、絶妙な相互協力関係によるところが大きいのではないかと 思えた。半世紀ぶりの師弟対談が予期以上に実りあるものになったのも、終 始細やかな配慮でお世話下さった奥様のお陰と感謝したい。>>