胸を衝いた感謝の言葉
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「この叙勲のもつ意味はそこにあります。われわれの仲間からその栄誉に浴する者の
現れたことが、大きな励みになります」
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「私が主役になったのは、今日で二度目です。一度目は私たちの結婚式、二度目が本
日です。私はいつも裏方でした。そのご褒美に叙勲になったのかと思っていました
が、そうではありません。皆さんのお陰でした。ありがとうございました。そして−
−」と言って、畠山氏は自身の左手に向きを変えた。そこには椅子が二つ並んであっ
た。一つは今しがたまで自身が座っていた椅子、もう一つは2年前に亡くなった夫人
の遺影が置かれた椅子だった。その椅子に向かって、畠山氏は、「家内のお陰です。
ありがとう」といって軽く頭を下げ、それで終りだった。力んでもいなければ、情熱
的な語り口でもない。いたって淡々たるものだった。そのことが、かえって私の胸を
衝いた。
日本に亡命した韓国人◆ その頃、私は自由民主党の三木武夫政務調査会長の主宰する政策研究立案機関に勤め ていた。中国問題と取り組んでいて、朝日新聞の論説主幹だった森恭三氏の知遇を得 た。ある日、金三奎氏という韓国人が森氏の紹介状を持って現れた。堂々たる体躯の 容貌魁偉な、しかし声の優しい人物だった。考えてみると、三木、森、金の三先人と も今や故人だが、その頃までの私は、大方の日本人がそうであるように、彼の国や彼 の国の人たちに偏見を持っていた。それが何のいわれのないものであることを、金氏 を深く識るにつれて、いやというほど知ることになった。説教されたり、教訓を受け たりしたのではない。そんなことをされたら、かえって反発したことだろう。つき合 う間に、私は金氏に敬愛の念を持つに至ったのだ。敬愛する人物の母国に対して、ど うして蔑視や差別意識が働こう。 ◆ 金三奎氏が旧制東京高等学校から東京帝国大学に進み、独文科を昭和6年に卒業した ことを知った。卒業論文のテ−マはト−マス・マンとのことだった。文学界における 20世紀の巨人の一人とはいえ、当時の日本では未だ作品は翻訳されていなかったと 思う。金氏が名家の出であることなど、それとなく知れた。 ◆ 日本女性と結婚して、若い頃は早稲田で古本屋を開いていたことも聞かされた。日本 人の朝鮮人に対する偏見は甚だしく、朝鮮人と結婚した日本女性への、冷たい目や心 ない扱いが容易に察せられた。 ◆ 戦後、韓国の一流紙「東亜日報」に拠って金氏は論陣を張った。論説主幹として、ま た編集局長として。華やかな立場にあった夫君とは裏腹に、敗戦国日本の出である夫 人は、どのような境遇にあったのだろうと推察しないわけにはいかなかった。 金氏 はやがて李承晩政権と決定的な対立関係に陥り、日本に亡命、東京に民族問題研究所 を設立、月刊誌「コリア評論」を発刊することになった。 ◆ 何度か訪ねたことのある「コリア評論」編集部は、発送部でもあり広報部でもあっ て、義理にもきれいとはいえない小さなその部屋の入口には、「コリア評論社」と共 に「民族問題研究所」の看板が掲げれてあった。そこで働いているのは金氏の他、女 性が一人いるだけ、それにしては「コリア評論」の中身は濃かった。
「どうもありがとう」◆ 金三奎氏は毎号、券頭言を執筆、3百回を越えたが、一貫して中立化による南北朝鮮 の平和的統一の実現を訴え続けた。金氏の求めに応じて、私は三木武夫先生をお引き 合わせしたが、朝鮮半島の中立化は国際環境がそれを許さなければ不可能というのが 三木先生の見解で、私も同意見だった。しかし、脇目もふらぬ金氏の姿勢が共感を呼 ぶのだろうか、同胞からの協力は細々とながらも後を絶たなかった。 ◆ 調べてみると、昭和43(1968)年のことだが、新宿の中華料理店で金氏の還暦 祝いが催された。旧制高校以来の親友だという清水幾太郎氏も駆けつけた。カメレオ ンのように千変万化する清水氏と、10年1日の如く変わらない金氏の取り合わせ が、私には奇異に映った。 ◆ 宴たけなわになる前だったろう、百人近い出席者が集まって記念撮影をしてもらっ た。その写真を今、手にしてみると、中央に金氏夫妻が椅子に腰掛け、その間にお孫 さんがいる。お孫さんのことはすっかり忘れていたが、撮影後、「皆さん、そのまま で」と言いながら金氏が立上がり、一人前方に歩み出た時のことが鮮やかに思い出さ れる。
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くるりと振り返るなり、「ひとこと申し上げます」と言って一礼、謝辞を述べ始め
た。
◆
何事か、と私は固唾を飲んだ。出席者全員も、おそらく同じ思いだったろう。
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