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信念の人、北御門二郎さんに会う
杉山 武子
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2000年3月27日、例年であれば満開のはずの人吉盆地の桜はまだ固くつぼんでいる。その並木を横目に見ながら市房ダムをさらに椎葉方面へ車で走り、人吉盆地の奥に位置する市房山の麓、水上村のご自宅へ北御門二郎氏を訪ねた。北御門氏は1913年(大正2年)熊本県球磨郡生まれ。旧制五高時代にトルストイの『人は何で生きるか』を読んで感激し、それが生涯の方向を決定することになる。東大英文科に入学はしたものの、ちっとも授業が面白くなく、ロシア語の勉強のためハルピンへわたる。
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日中戦争勃発のため帰国したが、トルストイの絶対非暴力に共感した氏は銃殺覚悟で徴兵拒否を貫く。結局「頭が狂っている」ということで徴兵とは関係なしとされ、東大も中退。以来「農耕が一番罪がない」と故郷に戻り田畑を開墾し、米、茶、しいたけ等栽培し、自給自足の生活をしながらトルストイの翻訳に没頭され、今日に至っている。
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そういうプロフィールを持つ北御門さんに惹かれた私はさっそく手紙を出し、昭和の終わり頃から数年間文通していた。一度福岡市での講演の折り北御門さんにご挨拶し、その後水上村にもお訪ねしようという事になっていたが、福岡からチョット行くには遠すぎる場所で、私も営業職に転じたりで多忙となり、通信が途絶えてしまっていた。ところが思いがけなく再会のチャンスが巡ってきた。車で北御門さんに会いに行かれる人があり、私も他の二人の方と同行させていただいたのだ。十年ぶりに願いがかなったのだ。
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一昨年から昨年にかけての大病を克服され、普段やすんではおられるものの、来客時には応接間でお話しされるまでに回復されていた。長男ご一家が同居されるようになって、農作業もずいぶん楽になったと、奥様もお元気で話された。お二人を前にして私達四人はいろいろなお話を伺ったり質問をしたり、あっという間の二時間が過ぎた。お話の中で印象的だったのは、夢の中で何度もトルストイと会われた時の話。「絶対非暴力と、人の上に人なし、人の下に人なし。人間はみな平等である。この二つのことを生涯かけて追求するのだ」とトルストイは北御門氏に語り、氏は「ハイ、わかりました」と答えたという。このエピソードを繰り返し私達に話された。
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他にもロシア語の翻訳を始めたいきさつ、徴兵拒否のこと、河上肇のこと、澤地久枝さんとの対談のこと、キリスト教と復活のこと、老いと死について等々・・・話は尽きなかったが病後の身に障るので私達も切り上げざるを得なかった。「以前は生きているうちに、いろいろまとめておかねばと思っていたが、88歳になって、もう欲もなくなった。自分が死んで、ノートをまとめてくれる人があれば、そしてそこに価値を認めてくれる人があれば、それでもいいと思っている」と。若き日一度は銃殺を覚悟した自分が88歳まで生きて、トルストイの翻訳に一生涯を注いでこれた幸せを、静かに語られた。死に対しても恐れるではなく、達観された口ぶりだった。
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北御門さんは私が持参した、ご本人から私宛のハガキをじっと読んでおられたが、はっきりと覚えてはおられないようだった。北御門さんがご自分のノートの話をされた時、私の頭にハッとひらめくものがあった。北御門さんから確かノートのコピーを頂いたことを、突然思い出したのだ。さっそく4月上旬、福岡の自宅へ戻った私は押入の中から数通の手紙と共に大切にしまっていた分厚いノートのコピーを探し出した。200頁くらいある。トルストイの書簡を翻訳したものだ。このコピーをどうして私に送って下さったのか当時の手紙も調べてみたが、特に書かれたものはなかった。私もはっきりは思い出せない。私は北御門さんのお話を思い出し、ノートを前にして、しばし考え込んでしまった。そのノートのコピーは、何かしらの意志を持って私に訴えているようにも思えた。その意味を私は今でも考えている。<2000年4月20日>
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