竈(かまど)の前

杉山 武子


ふと目を覚ましたとき、まだあたりは薄暗かった。私は雨戸の閉まった薄暗い寝床を 抜け出すと、ラジオのある居間を通って、板の間に下りた。板の間の向こうは一段低 い炊事場の広い土間になっていて、二つ口の竈(かまど)があった。

父と母が大きな羽釜を乗せた竈の前に並んで腰を下ろし、麦わらの束を焚き口に絶え ず足していた。火の勢いが増すと、パチパチと麦わらのはぜる音がして、羽釜のぶ厚 い木の蓋の間から白い蒸気がシュンシュン吹き出している。二人は斜め後ろから見て いる私に気づかず、炎に照らされながら低い声で話していた。

父は家業を継いで大工となっていたが、結婚後間もなく新妻の母を置いて、遠方の建 築現場に働きに出ていた。15日おきに1日の休日だけ戻るという飯場暮らしが、私の8 歳ころまで続いていた。私が寝ぼけまなこで竈の前の父母を見たのは、そのころのこ とであったと思う。

母は祖父母に仕えながら留守を守り、子供たちの世話をし、自家用の米や野菜や味噌 ・漬物を祖母と作っていた。半月ぶりに帰ったからといって、母と父がゆっくり話す 時間はなかった。だから父は朝ごはんの支度をする母と一緒に起きて、竈の前で二人 だけの貴重な時間を作っていたのだろう。

板の間につくねんと立って、声を掛けようかどうしようかと私が迷っていると、「○ 子がね」と母が私の妹の名前を言った。とても元気もんで、はきはきしていると先生 からほめられた、と。「そうか」と嬉しそうな父の声。

「それに比べると」とさらに母が言ったとき、私は胸がドキンとした。長女の私はお となし過ぎて物足りない、そんな話だった。留守中の様子を父に報告して、二人で子 供たちの成長を喜んでいるに違いなかったが、私は妹と比較されて、しかも妹の方を 父と母が評価しているように思い込み、切なかった。

私はそっと寝床に戻ってまた布団に潜り込んだ。そのあと父と母が何を話したか、も ちろん私は知らない。もしかしたら、私のいいところも話し合ったのかもしれない。 しかし私の受けたショックは大きかった。父と母は今思い返しても陰日なたなく公平 に私たちを育ててくれたが、私はあの朝の思い込みから自由になれるまで、かなりの 年月を要した。

小学四年生のとき棟梁だった祖父が亡くなったのを機に、父はよそでの仕事をやめ て、自宅で建築請負業に専念するようになった。そのうち父に代わって、私と母が竈 の前に並んで朝ご飯を炊くことが多くなった。

夏場は麦わら、冬場は稲わらと、作業場の屋根裏に山ほど貯えてあり、その日の分の 束を運んできては竈にくべた。紙はまだ貴重品だったので、紙を燃やすことはなかっ た。家には大工仕事で出た木端(こっぱ)や鉋屑(かんなくず)なども大量にあったが、 それは五右衛門風呂の焚きものになった。

ご飯を炊く前に前日の灰の始末をし、丸太の切り落としを腰掛けにして竈の前に陣取 り、火の番をするのは楽しかった。火のつけ方も上手な燃やし方も、祖母や母に教 わった。表情豊かにめらめらと燃え盛る炎は美しく、一炊の時間も長くは感じなかっ た。冬の朝どんなに寒くても、ご飯が炊きあがるころには、体の芯から温まっていた ものだ。

最近、両親と買い物に来ていた小学生が、店内の商品に次々に放火したという事件が あった。補導されたその子は、炎がきれいなので、それを見たくて火をつけたと言っ たそうだ。それが放火の理由だった。

そうか、今の子供たちは火を燃やす場所がないし、経験できないのだとその事件で気 がついた。電気コンロや電磁調理器には炎はないし、ガスコンロの炎は人工的でゆら めいたりしない。庭があっても紙くずや落葉もうかつに燃やせないご時世。キャンプ で飯盒炊さんでもしないかぎり自分で火を扱う事もないから、炎の美しさも、火の恐 さも知らないまま育つ子も多いことだろう。

私が中学生になったころ石炭風呂になり、石油コンロや電気釜が登場したので、竈は 出番がなくなった。母の労力は減り、竈の前の私の楽しみも失われた。竈はたちまち 時代遅れの無用の長物となり、二度と火の入ることはなかった。それが進歩であり進 化であり、発展なのだろう。

今さら竈や稲藁を持ってきて、昔の時代に戻ることはできない。時代と共に他の物に 取って代わられ、廃れてしまうものがあるのは当然だ。私の思い出など感傷に過ぎな いが、もう藁(わら)のオレンジ色の炎で煮炊きすることもないと思うと、竈の前の思 い出も幻想的ですらある。

もはや生きた火、燃え盛る躍動的な火や炎は、祭りの中に生き延びるだけになってし まうのだろうか。(2003年6月25日)