ジルベスター

武田 実夕


2001年12月31日ベルリン


朝から降り続けていた雪は午後になってもまだ止まなかった。そろそろでかけな くては、と思いながらもつい外出する気が失せてしまう。2001年12月31日のベル リンには、とてもけだるい気分にさせるような雪が降り続いてた。

「ねえ、ミユウ。ジルベスター (大晦日)はどうする?もしまだ予定が入っていな かったら、ぼくのパーティに来ない?たぶん50人くらい来る、かなりおおがかり のパーティなんだけど、、、。」

普段から日常を共にするほど親しくはないが、何かの折に顔を合わせる知人から の電話があったのはつい一週間ほど前だった。断る理由が特に思い付かなかった のと生来、押しに弱い性格をしているため、わたしはそのパーティに参加するこ とになった。50人といえば、きっと準備のためにヘルプが必要だろう、、、。結局、 パーティが始まる一時間ほど前から行って、手伝うことになった。

31日、ベルリンではどのお店も2時で閉店することになっていた。パーティに持っ ていく前菜の他には、とりたてて必要なものは無かったのだが、年明けにユーロ に切り替える前に持っているマルクを使ってしまいたくなってしまい、結局、履 くかどうかもわからない合皮の黒い靴を買ってしまう。やっぱり、ユーロへの切 り替えって経済効果があるみたいだ、と思わされる。何よりも自分がそのいい例 だ。

買い物から帰ってきて洗濯をしていると、あっという間に出かけなくてはならな い時間になってしまった。旧東ベルリンにある知人の家までは1時間弱かかる。日 本の友達に年賀状メールを送り、部屋を簡単に片づけてすぐに出発した。

着いた頃にはもう、あたりは暗くなっていた。久しぶりに会う知人に挨拶し話をし ていると、パーティでしか顔を合わせない面々が集まっていることに気付いた。
「久しぶり。最近はどうしてた?翻訳の仕事はうまくいってる?」
どの人からも同じような質問を受け、その度に 「まあまあ元気」とか「クリスマスの お休み以来、仕事さぼちゃってる」などとあいまいに答える。同じ事を質問すると、 やはり同じような答えが返ってくる。

一通り挨拶を終えて、パーティの準備に取りかかった。といってもわたしが手伝う ことはほとんど無かった。着いた時間が遅かったのと、オーガナイズとデコレーシ ョンのセンスにすぐれた知人がほとんど一人でやってしまっていたのだ。

8時になると次から次へと人がやって来た。グラスにワインをついで、軽く話す。 人が集まれば集まるほど、笑い声が多く聞こえる。それにともなってグラスがぶつ かりあう音が聞こえる。その音の隙間をぬうようにして、わずかにジャズの音楽が 聞こえてくる。こうして少しずつパーティの雰囲気がつくられていく、この時間が とても好きだ。


すれ違う人々


「プリンセス雅子は元気にしてる?」
皇太子ご夫妻にお子様が誕生したことは、こちらでも大きなニュースとなっていた。 皇太子妃雅子様の人気はヨーロッパでもかなり高い。そして、「インテリプリンセス」 というイメージをどの人も抱いていることに気付かされる。

そのうち、花火や爆竹の音があちこちから聞こえてきた。フロアではダンスをして いる人がいっぱいいる。時計を見ると、もう12時近くになっていた。誰が用意したの か、新年の乾杯のためのシャンパンがテーブルの上に並べられていた。隙間なくひし めきあって並んでいるシャンパングラスが美しかった。それは、ちょっとでもバラ ンスをくずしたら将棋倒しになって砕けてしまう脆さをはらんだ美しさだった。

程なくして、12時を知らせる大きな花火が聞こえてきた。シャンパングラスを片手 にみんなで乾杯し、近くにいる人たちと抱き合う。それは、とても心地の良い安堵 感をもたらすものだ。どの人の笑顔もすごく素敵に映る。

「Schones neues Jahr! (新年おめでとう!)」
「日本語では何ていうの?」
「アケマシテ オメデトウ!」 はっきりとした口調で答える。みんながそれを口真似 した。

でも、時計が1時を回った頃から、わたしはなぜか 家に帰りたい衝動に駆られた。
この後約束があるのという口実を知人に告げ、ほろ酔い気分になっている人たちの 合間をこっそりぬけだして、外に出た。

雪はまだ降っていた。今日は一晩中電車が走っているはずだと思い、駅に向かって 歩く。運良く、駅に着くとすぐ電車は来た。乗っている途中ふと、ウンターデンリ ンデンでストリートフェスティバルをやっていることを思い出した。そして次の駅 で下車した。この駅からなら歩いてもいける距離だ。

案の定、ウンターデンリンデンは人々でにぎわっていた。その突き当たりに、超然 とそびえたっているブランデンブルク門が見える。そっちへ向かって自然と早足に なる。あちこちからライブミュージックと共に人々の歓声が聞こえてくる。道端は アルコールの空瓶ばかりで、歩くのもままならならないほどだ。手袋をしていない ので手に降りかかる雪が痛い。たぶん、今はマイナス10度くらいだろう。

でも、歩き出すと寒さは心地よく体に染みた。風を切ってブランデンブルク門に向 かってまっすぐ歩く。近くまで来ると、門の向こう側でやっているフェスティバル が開いた鉄扉の間から見えた。観覧車が回っているのが見える。ずいぶんと回転速 度が速い。

「A Happy New Year!」
突然、耳元で声が聞こえた。びっくりして振り向くと、わたしよりも小柄で、20代 前半くらいの男の子がにっこりしてそばに立っていた。そして彼はウォッカの瓶を わたしに差し出した。ウォッカなんて普段はまったく飲まないのだが、差し出され ているのを断ることもできず、付き合い程度に瓶に口をつけた。その途端、体中を 張り詰めていた寒さが和らいでいくのが感じられた。

「ウォッカを新年に飲むってことは、あなたはロシア人?」
「ううん、ぼくはイタリア出身。3週間前に来たばかりでドイツ語はまだちっともわ からないんだ。これから数年こちらで生活するつもり。」
イタリア訛りの英語で彼は話した。

「そう。ベルリンの冬は厳しいわよ。わたしが初めてここにきた時は、真冬で凍るよ うに寒い時だった。でも何年かたったら、この寒さが心地よく感じられるようになっ てしまったの。」
「来年の今ごろは、ぼくもそんなふうに感じられたらいいな。今は、イタリアの暖かい 冬がちょっと懐かしい。」

そう答える彼には、まだここの土地の人になっていない独特の雰囲気が感じられた。 新しい街に移り住んで間もない人だけが持つ、新鮮さとその背後に感じられる不安 が入り交じった感情だ。
「じゃあ、ベルリンで素敵な時を過ごしてね」
「ありがとう。君も元気でね。」

彼は東へ、わたしは西へ向かった。歩きながら、ベルリンに移り住んだ時の冬の感 覚が、少し蘇る。5年前のことだ。出発する前日まで、やり残していた仕事が終わら なくていらいらしていた。次の日からベルリンでの生活が始まる、というのが想像 つかないくらいのあわただしさで日本を去ることになった。感傷的な気分に浸る余 裕もないくらいの忙しさで、成田空港に向かっていた。


妖しげで魅惑的な空間


その年は記録的な寒さの冬だった。マイナス20度を超える日々が何日も続いた。日 本から持ってきたブーツは薄くて、凍った道路の上を歩くのには寒すぎたので結局、 こちらの分厚い革のブーツを買うことになった。それが、ベルリンに来て最初の買 い物だった。

日本でどうしても終わらなかった仕事が一つだけあった。契約先の会社に事情を話 し、その仕事はファックスで済ませることにしてもらった。それを終えてしまうと、 やるべきことは何もなかった。莫大な時間の空白ができた。それは、日本にいた時 の多忙な生活に比べると、とてもぜいたくで素敵な時間だった。と同時に、こんな に対照的な生活にすぐに順応できた自分に少しびっくりしていた。

5年前か、、、。ひとりつぶやきながら、わたしは近道をするためにティアガルテン の入り口に向かった。ティアガルテンはベルリンの中心にあるとても広い公園だ。 日本人の感覚では森といったほうがいいくらいの広さだ。

公園の中はそれまでのにぎやかさとは一転して、人気が全くなかった。目の前には 降り積もったばかりの雪道がまっすぐ伸びている。遠くの方の外灯の光でうっすら と反射している雪がとてもきれいだった。わたしはゆっくりとその上を歩いた。時 折吹き付ける強い風の音に混ざって、フェスティバルの音楽が聞こえてきた。

かたかたかた、、、。
ふと奇妙な音が聞こえて、わたしは立ち止まった。あたりを見回すと人気は相変わ らずまったくない。何か小動物がそばを通ったのかと思い、再び歩き始めた。する とさっきと同じ奇妙な音が今度は頭上から聞こえてきた。

真上を見上げて、その音の正体がわかった。それは、風に揺られた枯れ葉が重なり 合った音だった。落ち葉になり遅れた、わずかに枝に残っている広葉樹の葉っぱが、 寒さのために凍ってしまって、それが風に揺られてそんな奇妙な音をつくりだして いたのだ。ほっとしてまた歩き出した。

しばらくすると、ライトアップされたフィルハーモニーの建物が見えてきた。左手 にはガラス張りのソニーセンタービル。その前には濃い霧が立ち込めている。光に 照らされた一面のガラスはとても冷たそうだった。前の街路樹のそばを歩いている 人影が小さく見えた。
真っ白い雪道の中で、わたしはしばし、ぼうぜんとして突っ立っていた。
雪の白さと闇の中に立つビルを照らす灯りに助けられて、目の前の雪道は明るかっ た。その明るさは、にぎやかさから解放されたばかりの自分にはちょうどよかった。 フェスティバルの音楽が風にのってまだかすかに聞こえてくる。そして数百メータ ー先には高層ビル街が広がっている。その間にこんなにひとりぼっちになれる空間 が広がっている、というのが不思議でたまらなかった。

すべてが調和していて、すべてが美しかった。寒さも雪の白さも、霧の深さも、ビ ルを照らしている灯りも、遠くに聞こえる騒音も、凍った葉っぱに吹きかける風の 強さも、、、。
と同時に、それは自分だけに与えられた妖しげで魅惑的な空間に感じられた。新年 を迎えたばかりの街中で今、ここにこんなにもしんとした空間が存在しているなんて、 誰が知りうるだろう?

ベルリン。ここに住んでいると、こういう瞬間がふと、やってくる。逃れることの できない真実を、突き付けてくるのだ。向こうから、この街が、わたしにそう訴え かけてくるのだ。
しばらくして、再び歩き始めた。歩くたびに道がさくさくという音を立てた。家ま ではもうすぐだ。家に帰ったらグリューワインを飲もう。温めた赤ワインから湯気 と一緒に匂う香料を思い浮かべると、少し体が暖まった気がした。いつまにか早足 になっている。雪はまだ降り続けていた。