私の女房殿は魔法使い私の心にはポッカリと大きな穴が空いてしまった。 小さな頃から、広い家には住み慣れているが、こんなに家が広いと感じたこと はなかった。ほんとうに空虚なのである。 ◆ 霊界研究を続けてきた私だから、たとえ妻の死であろうと、そんなにショック は受けないだろう。大方の人は、そうお思いになるかもしれない。実際、霊界研 究の立場から言えば、「死ぬ」なんてことは、ただ「ここ」から、地続きの「あ そこ」へちょっと移動するだけのこと。そう言い続けてきたし、実際そうだと信 じている。
◆
しかし、これは霊界研究者の誰もが感ずる矛盾であるが、理論理屈ではよくわ
かっていても、現実の空しさには耐え難い。辛い。ひたすら悲しい。
妻の最期の笑顔◆ 妻が不調を訴えて、検査のため入院したのは三月十四日(編者註 1997年) のことだった。数年前から糖尿病を患っていたのだが、検査の結果、腎臓もかな り悪いことがわかった。一時はよくなり、一週間で退院したのだが、また悪化。 自宅で点滴をしていたが、やはり入院したほうがよかろうということになった。
◆
三月三十日、病院で治療中、合併症などで容体が急変。意識不明に陥り、つい
には心臓が停止した。延命措置のために、歯を砕き、管をのどに差し込んだ。三
日目、出血やたんを除くために、今度はのどを切開、口はきけなくなってしまっ
たが、小康状態が続いた。だが、これも長くは続かなかった。
◆
小康状態になったとき、妻の手をさすりながら、私は耳元で、今まで働いた悪
事の数々を白状し、懺悔した。罪状が多すぎたからというわけでないが、すべて
を告白するのに何日もかかった。もっとも、妻は何もかもお見通しだったろう。
◆
あとで聞いたところによると、周りが随分と気をきかせてくれ、私が告白を始
めると、二人きりにしてくれていたらしい。私は夢中だったので、申し訳ないこ
とに、まったく気がつかなかった。
◆
「笑ってくれる?」
「女房殿」のすごさ◆ わが「女房殿」については、常々一目おいてはいたのだが、これほどまでに 「すごいヤツ」だったとは思いもよらなかった。死んでしまってから、再確認 させられたのである。ともかく、信じられないぐらい大勢の人から慕われてい たことが判明した。お悔やみに来てくださる方々が、口々に妻のことを話して くれるのだが、そのひと言ひと言に、妻への心からの感謝が込められていた。 最初は、お世辞半分かと思っていたが、皆、目に涙をため、あまりにも真剣な 表情なので、逆にドキマギしたほどである。
◆
それよりも何より、まず「女房殿」のすごさを思い知ったのは、入院したと
きのことだった。 ◆ あまりの人数の多さに、病院側が応接間を開放してくれたほどである。それ でも収容しきれず、食堂で寝たり、駐車場に停めてある車の中で寝たりした人 もいた。親衛隊の大政格、第一号の浅沼好三は、車に暖房をかけられないから、 まるで蓑虫のように、着るものをありったけかけて寝たそうだ。 ◆ 皆、義理で働いているのではない。妻のため、妻が喜んでくれるなら、ただ それだけの純粋な気持ちからだった。
ダンスホールの出逢い◆ 私だけに見せた最期の笑顔のすばらしさは言うに及ばず、わが女房殿の笑顔の きれいな人だった。そもそもの出会いから語れば、話はやたらと長くなるが、ま ぁ、この際、お許しをいただきたい。 ◆ 戦争中、私は学徒兵で、立川の航空隊に所属していた。今の私からは想像もで きないだろうが、何を隠そう、このとき、私はひどい吃音だった。そのため、最 前線に出ることはできなかった。ところが、終戦を迎えたときには、どういうわ けか、その吃音がウソのように消えてしまったのだから不思議である。 ◆ これは、天の配慮以外の何ものでもない、と考える。つまり、霊界の宣伝マン としての使命を全うするためには、途中で私が戦死しては困る。最前線に出ると 死ぬ確率も高い。だが、吃音では、部下に命令が下せないため、最前線に出すわ けにいかない。吃音は、私の生命を長らえさせるための手段だったに違いない。 今はそう思っている。 ◆ 終戦を迎え、復員した私は、外務省からの要請でGHQの通訳になった。大学 で英語研究会(ΕSS)に属していたのだが、如何せん、まったくしゃべれない、 聞きとれない。お粗末そのもの。ただ、耳がよく、発音だけはすばらしかった。 皆、これにだまされた。英語の実力のなさがバレないよう、GHQ内で「逃亡生 活」をしながら、ごまかしつつ、二年も勤め上げた。我ながら要領のよさだけは 大したものである。 ◆ 街ではすいとんをすすっている時代に、私は将校食堂で、毎日、アイスクリー ムで終わるようなフルコースを食べていた。そんな贅沢な生活にもそろそろ飽き た頃、自分で勝手に「渉外課長」なんぞという名刺を作り、兄貴のやっていた薬 品会社に勝手に入り込んだ。
◆
あるとき、普段はケチなはずの兄貴が、なぜか服地をくれた。今の方はご存知
ないかもしれないが、「スフ」という、いわゆる化繊地である。 ◆ 約束通り、銀座のダンスホールに行くと、そこにもう一人女性が来ていた。若 い女性である。かのテイラーが、自分の弟子を連れてきたのだが、これが誰あろ う、わが妻となる貞子であった。私も若いから、そりゃあ、五十歳すぎの先生と 踊るより、若い人と踊るほうがいいに決まっている。何度も彼女と踊った。
◆
そうしたら、今度は彼女のほうから会社に電話がきた。当時はダンスは大流行
だったので、友達を誘い合ってパーテイに行ったりした。
昼は証券会社、夜は洋裁店◆ ちょうど時を同じうして、私には、母親同士が結婚させようと目論む許嫁の女 性がいた。素晴らしい女性ではあったのだが、なぜだか、結婚相手とは違うな、 と感じていた。にもかかわらず、この人があまりにもいい人だったため、私には ハッキリと断わりにくかった。いつ、どのように切り出せば、円満に別れられる か、考えているような状態だった。彼女とは、ある程度の「肉体的接触」、とい ってもキスにも至らぬほどの純情なものだったが、接触はあった。ところが、こ のときすでに、貞子とはもう事実上の夫婦になっていた。
◆
ある日、困ったことが起こる。
◆
当時、私が住んでいたのが荻窪。許嫁の彼女はわが家の100メートル先、貞
子は西荻窪だった。三人とも家が近かったのである。三人でバスに乗ると、まず
私が降り、次ぎに許嫁、そして最期が貞子という順番だった。 ◆ 世の中はまだまだ混乱を極めている状態。先が見えないのである。ただ生きて いるような日々だった。だから、貞子は手に職を持ちたい、技術を修得したい、 と洋裁を始めたのだろう。昼間は証券会社で働き、夜は友達と小さな洋裁店を開 いていた。そんなことが可能な時代でもあったのだ。 ◆ 私はと言えば、兄貴の会社を追い出されることになるのだが、その日のうちに 求人広告を見て、東海自動車という進駐軍の修理会社に就職した。これも英語力 を買われてのことだったが、実力が三ヶ月でバレて、あえなく失業。今度は貞子 の親戚筋のコネで。油糖砂糖配給公団に入った。ここも二年勤めた。どんな勤務 状態かというと、二年いて、鉛筆の芯を削る必要は一度もなかったし、机の上に 置いてある原稿用紙の一番最初のページはチョコレート色に変色しているのだが、 二枚目からは真っ白。そんな状態だったから、公団解散の折りには、職員900 人のうち、ただ一人失業した。 ◆ そんな婆娑羅な生活を送りながら、この頃貞子とはもう同棲を始めていた。で きたばかりの荻窪のマーケットに、貞子は友達と店を構えた。ここに、貞子は住 んでいたのである。私の家はマーケットを突っ切って行ったところだったが、つ い途中で寄ってしまう。最初にうちは家まで帰っていたが、いつの間にか、居つ くようになってしまった。
お茶とお菓子で披露◆ そのうち、身内同士が話し合い、正式に結婚してはどうか、ということになる。 「じゃあ」ってことで、兄貴の会社の応接間で、お茶とお菓子で、お互いの家族 が承認し合う、ささやかな披露をした。式を挙げたわけではない。だから、つい この間、貞子が死ぬ間際に、枕元で「お前が治ったら、結婚式を挙げようね」と 言ったのである。
◆
さて、この披露のとき、貞子にはほんとうに悪いことをした。
◆
その日、帰ってみると、貞子はカンカン。こんなんじゃやってられない、とい
うことで、仲人さんのところに行って、言い分を聞いてもらうことになった。途
中、貞子に首根っこをつかまれたりしたものだから、ふり向きざまに貞子の手を
激しく払い落とした。運悪く、この一部始終を見ていた人がいて、男が女に暴力
をふるっている、と交番に通報されてしまったのである。険悪な雰囲気で歩く二
人のところに、お巡りさんが駆けつけて来た。いくら夫婦だと言っても信じない
ので、とうとうマーケットの中の家まで連れて行き、やっと納得してもらった。 ◆ よく私の下積み時代を貞子が洋裁をし、食うや食わずで支えてくれた、などと 書かれるが、これは大きな誤解である。映画はいきなり主役デビューで、下積み 時代はなかったし、あまり金に困ったことはなかった。だから、貞子がミシンを 踏んで儲けたお金は、遊びのための金になった。 ◆ 食うものがないのなら、貞子の家に行けばいいし、私の家に行けばいい。それ より、マーケットの中で唯一のインテリだった私は、交渉ごとのときなど、とて も頼りにされていたため、プリンス的な存在だった。だから、マーケットを一巡 すれば、食べ物なんて余るほど手に入ったのである。よく、貞子とも話したのだ が、あのマーケット時代はほんとうに楽しかった。
「俳優という職業は心配・・」◆ 貞子を始め、双方の家族全員、俳優なんて趣味でやればいいという考え方だっ た。貞子は口に出して不賛成と言ったことはないが、快くは思っていなかっただ ろう。 今思えば、女房殿は私のくだらない女性関係も含めて、何が起ころうとビクと もしなかった。先程、「金に困ったことはない」などと豪語してしまったが、金 の心配も、私がしらなかっただけで、蔭では苦労していたのかもしれない。
◆
親衛隊の一人、斎藤司はこう語る。
◆
また親衛隊員の一人はこう語る。
◆
結婚して八年か九年経ったとき、突然、妻がポリオに冒される。息子の義隆が
やっと三歳になったくらいのときだった。 ◆ 熱が下がってみたら、いきなり立てなくなっていたのだ。これには、ほんとう に驚いた。ショックだった。足が蚊に刺されてもどうにもならない、と妻は言っ ていた。原因がわかれば、理解のしようもあるが、原因はわからずじまいなので ある。 ◆ 最初は手も動かなかったが、リハビリをし、つたい歩きながら、普通の人に劣 ることなく生活をしていた。台所にも毎日立ったし、糸紡ぎから編み物まで、そ れはマメにからだを動かしていた。親衛隊員たちは、ご飯ができると、台所から テーブルまで運んだり、手伝ってはいたようだが、妻は自分でできることはすべ て自分でやっていた。辛かったろうと思うが、一度たりとも暗い表情を見せたこ とはなかった。いつも明るく元気だった。
女王様と下僕◆ 発病後、私と妻のポジションは逆転した。それまで私が王様だったのだが、そ の日から、 妻が女王様となって、私が下僕となった。気持ちの上ではそういうつもりであ ったが、妻は最後の最後まで、私に尽くし切ってくれた。
◆
経堂の家から今の家に越して来てしばらくした頃、台所で足元に小さい犬がま
とわりついて、妻は足の骨を折ってしまう。それから、妻は車椅子の生活になっ
た。 ◆ 貞子は、立派だった。我々にハンデキャップがあることなど、感じさせること はなかった。私のスケジュールはきっちり把握しているし、経理もすべて妻の仕 事であった。私の趣味の囲碁や将棋のビデオを録ることも忘れたことはない。お 付き合いの面でも完璧にこなしてくれていた。
◆
妻の周りには、いつも男がゴロゴロしていた。麻雀をしに来たり、ご飯を食べ
に来たり。いつも笑顔があふれていた。
◆
この男は、妻が桜の花が大好きだったのをよく心得ていて、危篤の妻を喜ばせ
ようと、公園の桜の枝をぶった切り、通報されて始末書を書かされたそうである。
「二、三本ならよかったんでしょうが、私は部屋中、桜でいっぱいにしたかった
から・・・」
よく皆で旅行に行った◆ マーケットの時代から、よく皆で旅行に行った。それこそ、ミシン踏んで二千 円、三千円という時代だったが、江ノ島のパン屋の裏に部屋を借りて、何日か過 ごしたことがあった。このときは、その日のうちに予定人数の倍になり、日が経 つにつれて人がどんどん増えてしまい、とうとう三十人ぐらいになった。床の間 にも廊下にも寝た。 ◆ 少し裕福になってくると、一軒家を借りたり、部屋にプールのある旅館に行っ たりもした。なんで、あんなに人が来たのだろう。妻の人徳以外の何ものでもな い。もちろん、からだが不自由になってからも旅行は続いた。 ◆ ある年、花火を見に行ったことがあった。家族ぐるみで来るので、小さな子ど もも来ていた。妻は花火の見やすいほうへと、這って移動する。そのとき、ある 子が「犬みたい」と言ったのである。子どもに悪気はないし、妻も聞き流してい たようである。だが、私はハッと思った。心ない言葉でどれだけ妻は傷つくこと だろう。以来、子ども連れはご遠慮いただいている。 ◆ 十五、六年前からはハワイに行くようになった。貞子はハワイがお気に入りだ った。買い物も楽しかったようである。私は買い物は勘弁だが、親衛隊グループ がハリキッて連れ出してくれる。
◆
洋服を買うときなど、妻は試着ができないため、むくつけき親衛隊員が試着し
て見せていたらしい。想像しただけでも愉快である。
◆
「丹波哲郎」には、そんなことはしてもらいたくなかったのかもしれない。でも、
たまぁにおぶったりすることがあると、うれしそうにしていた。
恋愛のピークと妻の死◆ 妻の葬式は、無宗教で自宅で執行した。読経もなく、戒名もなく、好きだった 「夕焼け小焼け」と「人生いろいろ」の歌で送った。ここから出してやれたこと は、よかったと思う。彼女の希望通りだったから・・・。 妻は私を送ってから逝きたかったらしいが、それだけは叶わなかった。弔問に 訪れてくださった1000名近くの皆さんには、ただただ、そのご厚意に謝する のみである。
◆
私は今、貞子と結婚して、ほんとうによかったと思っている。
◆
その静かで穏やかな二人の「恋愛」のピークは、貞子が死ぬときに訪れた。結
婚したときに端を発した、ゆるやかな恋愛上昇曲線の最高到達点は死ぬ間際。私
に笑ってくれた瞬間だった。 ◆ おまえが最期に、すばらしいプレゼントをくれて死んだもんだから、私はなか なか立ち直れそうもないよ。私の霊界研究には一切関心を示したことがなかった おまえだが、今、どうしているのか。私は感じたり見えたりしないけれど、周り の人が次々と霊界通信を届けてくれている。三十歳ぐらいの髪の長い姿で現れた と聞いた。通信はことごとく明るい情報ばかりだから、安心しているよ。 ◆ 今頃は、棺の中に入れたダンスシューズを履いて、踊っているのか。外出用と 普段ばきの靴も入れておいたから、あちらで困ることもないだろう。思う存分、 のびのびと歩いたり走ったり飛んだりと楽しんでくれ。私も近いうちに行くから ね。それまで、しばしのサヨナラ、だ。
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