英雄は死によって甦るベニグノ・アキノ、私の友人。フィリッピンが生んだクリーンで、民主的な 政治家。愛称は「ニノイ」。凶弾に倒れた君のことを想い出すと今でも胸が震 える。しかし、私が生きている限りニノイのことを語り続けよう。
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ニノイと初めて会ったのは1980年、ハーバード大学で国際問題の研究員
をしていたニノイに、取材でインタビューしたのが、きっかけとなった。当時
のニノイは亡命の身であった。マルコスの独裁政権から死刑宣告を受けたとは
思えない明るさ、気さくで、気配りの人柄に私はいっぺんに惚れ込んだ。
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ニノイに同行して、サウジアラビアを訪れたことがある。サウジアラビアは
フィリッピンから出稼ぎの人が多いので知られる。ニノイがコーラを飲みたい
と言うので私と二人分を買って持っていったら、一ケース欲しいと言う。重い
荷物を運んでやったら、一缶づつ出稼ぎのフィリッピン人に渡してやっている
ではないか。 ◆ 私はニノイの帰国には賛成できなかった。マルコスの独裁政治に壟断さてい るフィリッピンに帰ることは、良くても投獄、悪くすれば虐殺・暗殺の危険が 伴う。ニノイもその可能性を認めていた。 ◆ 帰国の前夜、ニノイと最期の話し合いをした。帰国を取りやめるように説得 する私にニノイは優しい目をして「帰国は国民との約束だから、自分の生命の 危険が予測されても、中止することは出来ない。中止すれば、政治家として失 格だと思う」と静かに語った。
イッツ・マイ・ボーナス◆ それでも私は引き下がらなかった。ニノイのような優れた政治家を失いたく ないと言う思いが、必死になってニノイの翻意を求めた。 私の友情が、ニノイも痛いほど分かっていたのだが、しかし、帰国の固い意 志は変わらなかった。 「オレの勇気を国民に見て貰いたい。流れた血で国民が立ち上がれば、それ はオレにとって”イッツ・マイ・ボーナス”だ」と言った。ニノイの壮烈な決 意を聞いて、私は言葉を失った
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八月二十一日、ニノイや私たちは、中華航空機でマニラ空港に着いた。軍警
察隊の兵士三人が機中に乗り込み、有無言わせずニノイを拘束して、機外に連
れ出した。私たちは足止めさせられた。
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マルコスの配下によって、周到に準備された暗殺劇だったと思う
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ニノイの予言は、それから三年後の大統領選挙で具現した。 ◆ ニノイは国民の英雄となった。非業の死を遂げたマニラ空港は、ニノイ・ア キノ空港と改称され、マニラ市内にはニノイの銅像が二つ建てられた。フィリ ッピンの五百ペソ紙幣にはニノイの肖像が刷り込まれてある。民衆に愛された ニノイは、十六年経った今でも国民の英雄である。 ◆ ニノイの身体は、暗殺者によって倒されたが、その雄々しい心は国民の中に 生き続けている。「イッツ・マイ・ボーナス」と言って、笑って死地に赴いた ニノイの面影は私の胸に永久に刻み込まれた。
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