英雄は死によって甦る

若宮 清

 それは1983年の夏のことであった。あれから16年の歳月が去ろうとし ているが、私には昨日のことのように鮮烈な記憶となって消えそうもない。
 ベニグノ・アキノ、私の友人。フィリッピンが生んだクリーンで、民主的な 政治家。愛称は「ニノイ」。凶弾に倒れた君のことを想い出すと今でも胸が震 える。しかし、私が生きている限りニノイのことを語り続けよう。

 ニノイと初めて会ったのは1980年、ハーバード大学で国際問題の研究員 をしていたニノイに、取材でインタビューしたのが、きっかけとなった。当時 のニノイは亡命の身であった。マルコスの独裁政権から死刑宣告を受けたとは 思えない明るさ、気さくで、気配りの人柄に私はいっぺんに惚れ込んだ。
 男が男に惚れ込むと言うのは、こういうものか、とあらためて思った。ニノ イのためなら、身体を張って、尽くしてやりたい、そういう民衆的な魅力を備 えた数少ない政治家だった。

 ニノイに同行して、サウジアラビアを訪れたことがある。サウジアラビアは フィリッピンから出稼ぎの人が多いので知られる。ニノイがコーラを飲みたい と言うので私と二人分を買って持っていったら、一ケース欲しいと言う。重い 荷物を運んでやったら、一缶づつ出稼ぎのフィリッピン人に渡してやっている ではないか。
 フィリッピンでは上院議員と言えば、雲の上の人である。それが一緒にコー ラを飲んでくれる。
 そして「出稼ぎをせずに、フィリッピンの家族のもとで働ける国に早くした い」と熱っぽく訴えた。拍手をしたフィリッピンの出稼ぎの人たちの目が涙で 潤んでいた。ニノイはほんとうの愛国者だった。

 私はニノイの帰国には賛成できなかった。マルコスの独裁政治に壟断さてい るフィリッピンに帰ることは、良くても投獄、悪くすれば虐殺・暗殺の危険が 伴う。ニノイもその可能性を認めていた。

 帰国の前夜、ニノイと最期の話し合いをした。帰国を取りやめるように説得 する私にニノイは優しい目をして「帰国は国民との約束だから、自分の生命の 危険が予測されても、中止することは出来ない。中止すれば、政治家として失 格だと思う」と静かに語った。


イッツ・マイ・ボーナス


 それでも私は引き下がらなかった。ニノイのような優れた政治家を失いたく ないと言う思いが、必死になってニノイの翻意を求めた。
 私の友情が、ニノイも痛いほど分かっていたのだが、しかし、帰国の固い意 志は変わらなかった。
「オレの勇気を国民に見て貰いたい。流れた血で国民が立ち上がれば、それ はオレにとって”イッツ・マイ・ボーナス”だ」と言った。ニノイの壮烈な決 意を聞いて、私は言葉を失った

 八月二十一日、ニノイや私たちは、中華航空機でマニラ空港に着いた。軍警 察隊の兵士三人が機中に乗り込み、有無言わせずニノイを拘束して、機外に連 れ出した。私たちは足止めさせられた。
 私は必死になってニノイを追いかけ、もみくちゃになりながら、出口にたど りついたら、ニノイがVIPタラップを降りるところだった。
 悲劇はそこで起こった。
 兵士の一人が拳銃に手をかけ、あっ、と思った瞬間、バアーンという銃声が してニノイが崩れるように地面に倒れた。空港のアスファルトがみるみるうち にニノイの血で染まった。

 マルコスの配下によって、周到に準備された暗殺劇だったと思う
 その場で暗殺者というふれ込みの男が射殺されたが、茶番劇以外の何もので もない。衆人環視の中で行われた恥ずべき暗殺をマルコスは、政府は関与して いないと否定したが、もはや国民の誰一人、これを信じる者は無かった。

 ニノイの予言は、それから三年後の大統領選挙で具現した。
 ニノイが流した血によって、立ち上がったフィリッピンの国民が、ニノイの 夫人コラソン・アキノ大統領に押し上げ、さしもの権勢を振るったマルコスは 国外に逃亡する。マルコスは亡命先のハワイで寂しく客死した。

 ニノイは国民の英雄となった。非業の死を遂げたマニラ空港は、ニノイ・ア キノ空港と改称され、マニラ市内にはニノイの銅像が二つ建てられた。フィリ ッピンの五百ペソ紙幣にはニノイの肖像が刷り込まれてある。民衆に愛された ニノイは、十六年経った今でも国民の英雄である。

 ニノイの身体は、暗殺者によって倒されたが、その雄々しい心は国民の中に 生き続けている。「イッツ・マイ・ボーナス」と言って、笑って死地に赴いた ニノイの面影は私の胸に永久に刻み込まれた。