真紀子のトラウマ

渡部 亮次郎

依然、世間を賑わす田中真紀子だが、この年頃に親父角栄はとっくに 政権を盗っていた。何しろ54歳で首相というのは日本の歴史上、珍 しく若かった。それなのに政治的天才から生まれたこの老嬢は何でこ んなにひねくれてしまったのだろうと考えて、はたとヒザを打った。

あれだ、あの論文のせいだ、あの心の傷(トラウマ)からまだ立ち直っ ていないんだ。「淋しき越山会の女王」である。19741年(昭和5 9年)11月号の月刊「文芸春秋」。特集は立花隆の「田中角栄研究 ―その金脈と人脈」であり、表面的には首相田中角栄はこれで退陣表 明(同年12月)をせざるを得なかったということになっているが、 のちに本人は「いや、ありゃたいしたことはなかったが、もう一本の ことで娘が大騒ぎしおってなあ、あれに参ったんだよ」と近しい人に 語っている。

「淋しき――」は田中には2人の息子を産ませた元神楽坂(東京)の 芸者のほかに女性ガいて自分の号をとってつけた政治・献金団体「越 山会」の金庫番をさせている。娘が一人いるが、どうも離婚まえに角 栄と不倫関係で出来たようだ、彼女の名前は佐藤あき(昭)、同郷の 後輩である、といった趣旨だった。初めて公に語られた事実であった。 とくに真紀子は驚き大声を上げて父親たる首相を非難したらしい。

「恥ずかしくて街を歩けない、総理大臣なんて辞めて頂戴」
こうなる事を角栄は何年も前に気付き手を打った心算だった。確か昭 和41年ごろか。「女性自身」の若い記者が昭の事を嗅ぎまわってい る、これがばれたら総理のイスが遠くなる、と側近が騒ぐから、カネ で抱えた元読売新聞記者の政治評論家に3000万円を渡してもみ消 しを命じた。

それで俺は総理になれたから、済んだのだと思っていたのに、あの野 郎ツ!
経緯は簡単だった。政治評論家はその雑誌記者と面識がなかった。周 りに高名な作詞家がいて「俺なら簡単だ」と請け負った。児玉隆也と いう記者だった。昭和12年、兵庫県芦屋うまれ。幼くして父を失い、 行商する母に新聞配達をして家計を助けた。早稲田に無理して入った から夜学だった。光文社は夜学生は採用しないとほざくから、食って 掛かったら入れて女性誌の担当になり、やがて副編集長になった。

そこで「おんな」を武器に男社会に挑む女性を「シリーズ人間」とし て企画し、何人目かに佐藤昭を取り上げる事にして動き始めたら、い きなり高名な作詞家が訪ねてきて「やめてくれ」という。押し問答の すえ、作詞家は封筒を置いて帰った。開けたら800万円も入ってい たので、直ちに返した。

間もなく社内で初めてストライキが起きた。どちらにも組みしないで いたら「児玉が取材先からカネを強請った」という噂が立った。嫌気 がさして退社しフリーの物書きになった。それにしても癪にさわるの でその道にくわしい政治記者に聞いたら「人を買収するのに800万 というのは半端すぎるな、作詞家がねこばばしたことは間違いないな」 といった。

そこへ文芸春秋から「もう独立したんだからアレを書いてよ」と頼ま れたから「淋しき越山会の女王」というタイトルで書いた。発売にな ってみたら立花という人の添物みたな扱いだったが、自分としては、 これでなんだか肩の荷を降ろしたような気持だった。

それから3ヶ月、田中政権は崩壊した。歴史は立花論文が田中を倒し たと太字で記録するが、のちに愛娘真紀子の国会答弁を詰まらせるく らいのトラウマを与えた事を考えれば、児玉のボデーブローの効果は 物すごいと言うべきだろう。田中を倒したのは児玉なんだ。

以下はその後、私が双方から確かめた事実を基に下した推測ではある。 3000万円を角栄から渡された時に政治評論家は先ず1000万円 を抜いた。その次に受け取った作詞家は人を買収するのに偶数円とは 「これはおかしい」と気付き、同額を抜き、更に200万円も抜いた。 今晩の銀座の遊び代。残りが800万円だった。

馬鹿を見たのは角栄である。得意の技が効かなかった上に3000万 円も還ってこなかった。とはいえ政治評論家はやがて罰当たりのよう に都内のホテルで22才を相手に腹上死した。独り作詞家はまだ自作 の詩の状態には達していない。残念な事に、児玉は1975年(昭和 50年)5月22日、肺癌で死んだ。まだ40歳になっていなかった。

田中内閣と差し違えたような死だった。3000万円をどうやって、 誰がいくらねこばばしたかも知らないままだった。真紀子もまた知ら ない筈である。

とにかく角栄は買収が好きだった。小学生に何万円かを遣ろうとして 側近にとめられて怒った。「ひとにカネを遣って何が悪い。俺にはそ れ以外に何もないんだから」。役人にも記者にもカネを配った。断る と女房宛てに現金書留を送った。そうやって世間を「盗った」のであ る。娘はそうしたカネは一銭も使ったことがない。無いどころか秘書 たちの給料をくすねた疑いで代議士を辞職した。人間は必ずしも進化 しないことの良い例である。