中国残留孤児を忘れるな
渡部亮次郎
老後の生活に不安を募らせて・・・
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今年の中国残留日本人孤児の訪日調査が11月21日から、6人を招いて行われる。
訪日調査は昭和56年(1981年)から昨年まで32回行われたが、第1回の調査を
担当したのが当時、厚生大臣秘書官だった私である。それだけに、このことに
ついては、いつも他人事(ひとごと)ではいられない。産経抄(9月29日)に
依れば、今年は日中国交正常化30年の記念ツアーで、13,00人余りの日
本人が北京を訪れた。交流式典が行われた22日の人民大会堂はツアー客であ
ふれたが、その中には、85人もの与党3党の国会議員が含まれていたという。
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一方、国内では、北朝鮮による拉致問題の陰になって大きくは報じられなかっ
たが、中国残留日本人孤児約600人が、23日、東京都大田区の区民ホールに
集まり「国家賠償訴訟原告団」を結成した。帰国政策や帰国後の生活支援を国
が怠ったとして、損害賠償と謝罪を求める裁判を年内にも起こす。孤児たちは
ほとんどが60歳を超え、「老後の生活に不安を募らせている。日本人らしく、
人間らしく、人生の最後を祖国で暮らしたい、そんな願いを口にした」(朝日
新聞9月24日付)
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若い方々のために中国残留日本人孤児問題とは何かを産経新聞9月28日付の「解
説」を紹介する。
中国残留日本人孤児の悲劇は今から半世紀以上前の昭和20年(1945年)8月に起
こった。(もともとは)昭和10年ごろ、中国東北部(元満州)には(政府の方策
のもと)多くの日本人が開拓団として入植し、日本人社会が形成された。昭和20
年8月9日、旧ソ連の対日参戦により、日本人社会から男性の多くが召集され、残
された女性や子供、高齢者は避難を選択。厳しい戦況に加え飢餓や伝染病のため、
子供たちは親兄弟と死別したり中国人に引き取られるケースが多かった。
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この子供たちは中国人養父母のもとで育てられ、日本に帰国する機会を失ったま
ま成人。これが中国残留日本人孤児だ。旧厚生省(現厚生労働省)が中心になっ
て作成した中国大陸からの未帰還者の名簿や聞き取り調査から推定し、残留孤児
の総数は約二千五百人と推定されてきた。
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ところが、日中国交回復(1972年)後、残留孤児調査で孤児の数は、はるかに上
回っていたことが判明。現在、厚生労働省が把握している残留孤児は2,773人。
さらに170人程度の残留孤児の可能性のある人が日中両国政府で調査中だ。
これまでに身元判明したのは1,274人。このうち1981年から行われている訪日調
査で身元が判明したのは675人だ。
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訪日調査が始まったころは高い確率で判明したが、ここ数年は数人程度。政府に
寄せられる情報も年々減っており、一昨年は約80件寄せられた情報も昨年は15件
だけだ。
厚生労働省は孤児や関係者の高齢化が進み、証言が得られなくなってきたとして
いるが、少なくてもまだ1,500人近くの人の肉親が不明なままだ。以上が産経の解
説。
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田中角栄首相の特別機に同乗して、日中国交正常化の推移を見つめていた時、私
も多くの国民も、この事実は知らなかった。小泉首相の北朝鮮訪問をきっかけに
残留孤児は北朝鮮にもかなりいるはずだという投書を新聞で見たが、田中訪中の
時に孤児問題に触れたメディアは一つも無かった。中国人に預けたり、呉れたり、
あるいは売ったりという例もあったというから、このまま墓に持っていこうとい
う悲壮な決心をしていた人たちもあったかもしれない。ある人の説では、孤児の
ことを持ち出せば、出自がばれるのを恐れた人も多かったという。
とにかく、日中国交正常化後も、ほとんど表面には出と来なかった。
日本へ連れて帰って・・・
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そうやって私の年月は6年が過ぎた。ところが問題は突然私を襲った。
昭和53年8月の北京。私は今度は外務大臣園田直(そのだすなお)の秘書官とし
て、日中平和友好条約の締結交渉の真っ只中にいた。条約は12日に調印できた。
我々は大使館に夜、立ち寄った。すると前庭の暗がりに相当な数の人間がうごめ
いている。大使に「これは何ですか」と聞いたら「何でもありません」との答え。
しかし、私はまだ記者だった。その結果、これがあの残留孤児の人たちだと知っ
た。とんでもなく遠くからやってきたのだとも知った。「田中さんの時は間に合
わなかったが、今度は間に合った。園田さんは日本へ連れて帰ってくださるだろ
う」という人もいた。
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だが、私には何の用意もないし、なんとも出来なかった。考えてみれば、あの時
厚生省と外務省が組んで遅まきながらとはいえ直ちに行動すれば事態はもっと早
く動いたのだが、外務省は「引揚などの援護事業は厚生省の仕事」といい、厚生
省は「海外のことだから外務省の仕事」といって互いに逃げた。
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それからさらに3年、私は何もできないでいたが、今度(1980年)は厚生大臣の秘
書官になっていた。外務省をよく知っている園田厚生大臣だから、仕事はやり易
かった。援護局はやっと積極的に動いた。その結果、昭和56年(1981年)3月2日、
厚生省の招待で残留孤児の第1回訪日団として47人が来日。この時は 26人の身元
が判明したのだった。けじめの好きな園田大臣は援護局を特別表彰した。
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この調査が昨年まで32回をかぞえ、今度33回目として6人が11月21日から6人が来
日するというわけだ。内訳は男性3人、女性3人で、推定年齢の平均は約60歳。大
半は家族と別れた際に幼かったため記憶はあいまいだという。身元が判明するこ
とを祈るのみだ。
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しかし、身元が判って帰国した人たちが、今度は生活苦に泣いて、とうとう国を
裁判にかけるというのが、冒頭に書いた原告団の結成だ。9月13日付の朝日新聞に
よれば、訴訟は1人3,200万円の損害賠償と謝罪を日本政府に求めるという。原告
団600人は帰国者の約4分の1だが、動きは全国に広がり、1,000人を超すだろうと
弁護団は見ている。
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孤児の人たちは帰国後、しばらくは生活保護を受けながら日本語や生活習慣の勉
強をして就職したが、年齢がいっていたため、正社員になれなかった人も多い。
どんなに日本語を勉強したって、所詮はにわか勉強。いまだたどたどしいままだ。
横浜に住む65歳の人は定年後、受給できる厚生年金は月額約3万3千円。これでは
家賃も払えない。老後の収入は厚生年金と国民年金あわせて月10万円程度。ほかの
孤児の多くは帰国がさらに遅かったため国民年金の受給額は2万円しかないのが現
状だ。
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「朝日」によれば、厚生労働省は「足りなければ生活保護を」という。すでに7割
近い人が受けているが、制約が多すぎて、とても暮らせない、という。
政府は、私の見る限り、孤児問題を一貫して親族や本人が処理すべき「個人次元の
問題」としてきた。このため、2年前から国会に対して行った請願もあえなく葬ら
れた。それなのに北京へ行ってはお祭り騒ぎはやる。「何だというのだ」その失望
感がとうとう訴訟になるのだ。
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もともと満州開拓自体、国の棄民政策のようなものだった。それが関東軍に見捨て
られ親に棄てられ、政府に見捨てられ、すがった国会にも冷たくされるとはあまり
にも悲惨だ。政治はあまりにもむごい。
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