「こんにちは中国」
渡部亮次郎
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「調印式の開始が遅れた理由は何かって?ありゃね、中国側が調印に先立って、共同声明について閣議ってエのかナ、軍部などに事前通告みたいにして了解をとるのに、つい時間を食っちまったてエことだったナ」。
もう羽田まで、あと30分のところまで飛んできて田中総理の口から、ようやくナゾが解明された。
いうまでもなく、九月二十九日日午前十一時(日本時間、以後すべて同じ)からと公表されていた日中国交正常化に関する共同声明の調印式が、15分以上も遅れたことは、テレビを見ているすべての日本人をやきもきさせた。もちろん異例の“大公開”の“恩恵”にあずかって観覧台にいた私もやきもきしていた。いまごろ、東京からはガンガンいって問い合わせてきているだろうと思うと、いても立っても、いられなかったが、立って居るしかなかった。問いただすべき関係者はそこにいないし、また仮に聞けたとしても人民大会堂からプレスセンターまでの連絡方法はなかったのである。
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第一、人民大会堂に記者を入れたのさえ異例なのだし、電話なぞ、どこにおいてあるのかナゾなのであった。とすれば以後も全く日本側首脳との接触を絶たれた日本側記者団としては帰途の機中で首相に真相を聞くしか真相究明の手段はなかったのである。
ことほどさように田中首相同行記者団は「見ざる聞かざる言わざる」の三重苦に悩まされながらの取材をしいられた。それは取材などといえたものではなかった。「真実を伝える勇気が生む信頼」というこの年の新聞週間の標語が泣いた。
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今度の田中訪中同行は、はじめからもめた。同行希望の記者が300人以上というのに対し、中国側が言ってきたのは60人。あとで政府代表団のいらなくなったワクを20人削らせて80人となった。それでもニクソン訪中の際の希望者2,500人に対する第1次回答が、たった10人だったのと比較すれば、田中訪中は雲泥の差で優遇されたというべきだろうか。
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取材の方法についても外務省を通じて“主張”してみたが、結局ダメだった。二人に一人の割合でついた通訳と一緒でなければ、どこへも行けなかった。まして裏通りをブラつくことなどとんでもないことだった。
80人の記者団のうち私たち15人は田中首相の特別機に同乗して行ったが、一緒だったのは飛行機の中だけで、北京空港に着いたとたん「記者のみなさんは、こちらへどうぞ」と“丁重”に厳しく100メートル引き離されてしまった。
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史上初めて北京の土を踏んだ日本の総理大臣がどんな表情をしているのか、全く見えない。それっきり帰国まで首相とは口をきくことは不可能というお達しであった。
もちろん二人の記者と二人のカメラマン、二人のテレビカメラマンは3メートル以上離れるいう条件でなら近寄れる。これを称して中国側は「近距離記者」という。だが、ほかの全員は「遠距離記者」だから、ツンボ桟敷だった。
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プレスセンターへ首脳会談の発表にくる二階堂官房長官も「発表はできません」と“発表”するだけ。中国側の外交部新聞司(外務省情報文化局のようなもの?)の役人が五人も見張っているから、当の二階堂氏でさえ「わたしだって言いたいんだツ」と怒り出す始末だった。
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それでも“取材”をやめるわけにはいかない。万里の長城へ首相が行った時(九月二十七日)は混雑を幸い、多数の遠距離記者が「近距離」を敢行した。その結果、「たいしたもんだ」という新潟なまりのなつかしいダミ声がブラウン管から流れたわけである。
ところが翌日の故宮見物からはまるっきり“規制”がきびしくなって“近距離”さえ“遠距離”にされかねない始末。ダミ声はかすかにしか故国にとどかなかった。
全土に十万台しかないテレビ。そのニュースは一日遅れ。人民日報さえ夕刊のない中国であってみれば、人民という名の大衆はニュースに飢えていることはないのか。
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まして、しつこさとすばしこさでは世界に冠たる日本人記者を野放しにしたら、どうなることか。わからぬわけでもないが、日本の言論は自由であることを再確認した次第。
調印式の後、田中首相は十五人乗りの特別機で北京空港から上海に向かった。周首相が同道。北京空港では整然たる三軍の儀杖兵に、国交正常化後初の現象として各国大公使と二千人の市民が歓送に加わった。ドラを鳴らし、太鼓を叩き、笛を吹き、赤、黄、緑といったカラフルな民族衣装をまとって全身で歌う市民の光景にはびっくりした。
これが上海空港に着いてみると歓迎陣は三千人。さらに上海を翌日飛び立つときは六千人である。「毛主席から周首相に電話で三千人じゃ少ない。二倍にしなさい、という指示があったそうだ」と田中首相は言っていた。
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思えば、戦後のわが国にとって中国問題の打開は反政府勢力のスローガンであった。野党各党は何かといえば「中国敵視政策であるのだから日米安保条約を廃(破)棄しろ」といい、日米安保を諸悪の根源としてとらえてきた。自民党内部も同様で、松村謙三氏のような立派な人もいたが、大部分の政治家は大臣のポストに就けないとわかったとたん、「日中打開」を叫びだしたものだ。ことほど左様に中国問題は反政府勢力のテコとして使われてきたきらいがある。佐藤内閣がニクソン・ショックで終わり、本命といわれた福田赳夫氏がその後継者たり得なかったのも彼の中国問題に対する”慎重さ“の故である。
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こうした観点からみれば、こんどの日中国交正常化というものは文字どおり「バタバタと」実現してしまった。周首相が「田中首相の北京訪問を歓迎する」と述べた七月十六日から共同声明調印まで七十五日しか経っていない。
私は上海からの帰途、とくに同乗を許された五人の記者のひとりとして田中首相と懇談しながら帰ってきた。その際、首相は「交渉は行った初日の第一回首脳会談で片付いた」ということだった。
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つまり「過去の残虐行為謝罪」を明文化するにあたって「ご迷惑を掛けました」ではダメで「深く反省する」の一項を入れたあとはトントン拍子に進み、帰国後の記者会見でも明らかにされたように、日米安保条約はもちろん、台湾との現実的な関係でさえ中国側は認めたということなのである。
だから、こんどの正常化は日本よりも中国側がそうせざるを得ない国際環境、国内事情の変化があったからといえるのである。それはソビエトに対する日米両国の接近、林彪事件,経済建設などである。
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しかし、そうしたことを分析もせず、とにかく「すばらしい勢いで国家建設を急いでいる隣国と仲良くしないのはおかしい」とやみくもに騒いだのがハト派であり、反対に「共産革命が輸入される。あんなやつらにまともに口をきく必要は無い。中国人は台湾人で十分だ」とかたくなに自らの穴にとじこもったのがタカ派であった。
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だが、私はそのどちらも誤っているように思う。中国の一糸乱れぬ統制、平和への願望など前向きなものは、それなりに評価しなければならない反面、だからといって低い生活水準にまで目をつむって「公害を出さないために自動車をやめて自転車にしているのはすばらしいことだ」とまでほめちぎる必要はあるまい。
中国がいま欲しているのは乗用車でもカラーテレビでも電子レンジでもない。そうした消費物資では無く、工業建設のための日本の技術だけである。資源に技術を加えることによって国力を“開発”し、生活水準を上げるのが狙いである。そう見る限り、この段階で中国を大きな“市場”と見るエコノミック・アニマルの意図は無残にも打ち砕かれるであろう。むしろ国力を“開発”したあと、おそらく東南アジアの“市場”で中国と競合することになる何年後かに備えるべきであろう。
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中国がこうした基本姿勢をとっている限りぜいたくな消費生活と好奇心だけを持ち込む外国人観光客は当分入れないものとみられる。建国への統制にとって邪魔になるばかりだからである(注。その後、搶ャ平の登場で路線は改革開放に路線は変更された)。
揚子江(今の呼称は長江)の動くともみえぬ雄大な流れに別れを告げて五十分後、ジェット機が影をうつす日本の地は、さながら箱庭のようである。環境が人間の思想を形成するものであるとすれば、われわれの物の考え方というものはきわめて近視眼的で、ちまちましたものだということになる。国交を正常化したーしかもその歴史的現場に“目撃者”として立ち会ったとはいっても機内ではまだ実感がわかなかった。中国人も同様であろう。新たな交際には新たな理解が必要である。そう思いながらも一週間ぶりに帰った日本の政界は箱庭の喧騒の中にあった。
(注)この時、真紀子嬢は同行していない。ところで、30年前に今日の日中関係を予測する眼力はなかった。だからといって中国と国交回復しないわけにはいかなかったのは当然だったが、その後を我々は誤ったのではないか。やたらに謝っている。
掲載紙:秋田魁新報(昭和47=1972年10月11日〜12日)