助っ人園田の嘆き
渡部亮次郎
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軽蔑したのは晩年、福田赳夫に対してである。自分は余り好きでない福田陣営に駆けつけて福田政権を樹立したが、福田氏が親分の岸信介の要求に唯々諾々肯んじ、官房長官を僅か一年で追放した。俺を追放しておいて福田政権が続くものか、ナベシャン見ておれと呟きながら、「大福二年密約」を暴露。「天の声にも時には変なこえがある」と福田は下野したのだった。昭和五十三(1978)年秋のことだった。
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園田が自らの派閥を解散して、余り繋がりの無かった福田赳夫の派閥に合流したのは福田が昭和四十七(1972)年七月、いわゆる角福戦争に敗れた直後である。その時から福田派は「八日会」と呼称を変えた。園田は参謀で、会長代理となった。
福田に勝って政権を獲った田中角栄は懸案の中国との国交正常化をさっさとやり遂げ「今太閤」などと人気を欲しいままにしたが、金脈疑惑にまみれ、三木武夫という正反対の人間に政権を渡さざるを得なかった。そのまま推移すれば園田に働き場は無く福田にも政権の目はなかった。八日会にも策士と呼ばれた園田に対するなんとなくの批判も湧いていた。何も出来ないじゃないか、策士。
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それが一転したのは「ロッキード事件」である。アメリカの航空機会社ロッキード社の対日売り込み作戦に協力するのの見返りに日本の政財界トップたちが多額の賄賂を取っていたというもので、田中も首相在任中に五億円を取っていたとして逮捕、起訴された。
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園田が他の政治家比べて全く優れていたのは、すべてのことを戦略、戦術と言う側面から分析、実施できたことである。日中戦争の始まった時に、働いていた在中国の炭鉱会社会計係から血書、志願して陸軍に身を投じ、連続して十一年間、野戦を戦った。その中で身を晒して戦略とか戦術の重要性を体験した。後に田中幹事長、園田国対委員長というコンビを組んだことがあるが、次々に繰り出す野党押さえ込みの強硬採決に田中が目を回し「戦場に出て、俺は敵を殺さなかったが、実際に斬ってきた園田の凄さには敵わない」と嘆息したことがある。早くから「策士」といわれた所以である。
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その策士を擁して田中は三木を倒すことだけを考えたが、園田は全く別のことを考えていた。三木のあと順当に考えれば田中の息の掛かっている大平正芳に政権が行く流れだった。そこで園田の考えついたのが「密約」でする逆転の福田政権樹立である。「密約」そのものは約二十年まえの岸内閣時代に「守られなかったもの」として存在したが世間はそんなことが今の時代にあるなんて考えてない。それこそ永田町の論理だけで存在したのである。福田は任期二年、大平はその間幹事長として支える、という簡単なもので、大平派の青い罫の縦書きのB5の便箋に私には見慣れた鈴木善幸の字で本文が書かれ、福田と大平が署名捺印、鈴木と園田が署名の下に花押を書いてあった。園田はそれを盾に福田内閣では自分勝手に副長官に塩川正十郎を引っ張って官房長官に就任した。福田首相としては既に引退していたとはいえ親分の岸から、女婿である安倍晋太郎を官房長官にするよう指示されていたから実に困った。
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それでも我侭を通したのは、園田は官房長官として幹事長の大平と密な連絡体制を組み、何とか大平を説得し三年を福田にやらそうと考えていたからだ。政権を獲って一年経ち福田が内閣改造をするという日(1977年11月)の朝、私の自宅に秘書官就任を要請して来た時の電話では官房長官留任に自信を持っていた。私もまた国内政治の取材が主だったから官房長官の秘書官ならば務まると思って就任を了承したが、総理官邸に着いて見たらなんと彼は外務大臣に横滑りさせられていて私もその秘書官ということになっていた。園田は物凄く不機嫌だった。「飛ばされた」或いは岸にやられたという被害意識から抜けることはできなかった。岸は園田が国対委員長になれば国対委員長、官房長官になれば官房長官、のちには外務大臣になれば外務大臣にいずれも女婿の安倍晋太郎を押し立てて園田を揺さぶってきた。我慢ならんと園田が考えても無理は無い、と思えた。
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岸が園田を憎むのには理由が有った。岸政権の末期、反主流派になっていた河野派で園田は中国政策や破壊活動防止法案、警察官職務執行法案をめぐって雑誌「中央公論」や「世界」を通じて強烈な岸内閣批判を展開、岸首相をして「わが党に秘密共産党員が二人居る、一人は宇都宮徳馬、一人は園田直」と言わしめたものだ。世間は園田がその昔、野党労農党の代議士・松谷天光光と「白亜の恋」で結婚したことを思い出し岸の説に納得した。岸にすればそんな園田が居なければ政権を獲れなかった筈の福田も不甲斐ないが容共派と断ずる園田を要職につけることにはもっと腹が立ったに違いない。
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ところで総裁選挙で現職の福田が大平に敗れた時は黙っていた福田だが、次の四十日抗争での首班指名選挙で園田が派(福田)の縛りを破って大平に投票した時には園田を福田派から除名するという大方の主張に沈黙を守った。しかし園田もまた納得の除名だった。福田は勿論岸とも、かつて政治記者のころは頻繁に会っていた私だが、立場が立場なだけに気軽に会いに行くわけには行かなかった。
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園田が私に福田首相の悪口を言い始めたのは日中平和友好条約の締結交渉開始に福田首相が遅疑逡巡し始めた七十三年初めからである。「戦場では二番目に逃げる奴が必ず撃たれる、遅疑逡巡が一番いけない」と言うものだった。成るほど、外相にされて頭にきていたのはこれだったのか、とわかった。調べてみると二人は政権を獲った直後に中国生まれで中国政府に太い人脈を持つ人物(男性)を一九七七年正月に東京・野沢の福田邸に招いて日中平和友好条約の締結を急ぐことを確認し、その趣旨を中国側に伝えさせるべく、確か正月四日に中国にこの人物を派遣している。首相と官房長官として、それだけの決断をして置きながら福田首相は次第に躊躇いを始める。特に園田を外相に飛ばしてからはますますひどくなった。世間は内閣改造に際してたった一人園田を残し、あえて外相に「抜擢」したのは懸案の日中をいよいよやる気だと見たのに福田さんはどうしたのだと不思議に感じたようだった。
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その陰にまたもや岸の圧力を感じたかどうかはわからないが、園田は、首相が日中を引退の花道にされそうだと感じ始めたから躊躇を始めたのだと解釈していた。
先に述べたように大平との「任期二年」の密約を園田は自分が官房長官で留任すれば「さらに一年」と大平に働きかける心算であり首相もそう解釈していると思っていたが、自分を官房長官から外した段階で任期延長工作は諦めたのだろうと、これは意地の悪い解釈である。しかし、園田はそれぐらいハラを立てていた。また女婿の越智道雄代議士や長男で首相首席秘書官の福田康夫らは「密約」の存在を知らない。「園田外相」は抜擢人事と見ているから「園田は親父の総裁再選実現になんで動かないんだ」と非難する日々が続いたものだ。「園田外し」を官房副長官の塩川は知っていたし、記者団の中にも予め知っている人はかなり居たようだ。園田にすればそれも腹立たしかった。
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七八年の八月になっても首相は園田外相に北京へのゴー・サインを呉れない。呉れないどころかなんとか園田をやらずに役人で締結できないかと画策していたのだ。俺を北京にやらせないならおれは辞めるとのサインを複数の記者を通じて首相官邸に伝えたのは八月四日だった。その時すでに有田圭輔外務事務次官は「八日午後三時特別機羽田発」を決断して日航特別機の手配は勿論、搶ャ平副首相への土産として園田の郷里熊本の阿蘇山を描いた絵(河合健二画伯)とか大使館員の土産には食パンの手配が済んでいた。そこまで用意したうえで、六日夕方に箱根プリンスホテルで静養中の福田首相の裁断を仰ぎに園田は行った。福田首相が「行くかい、何時行くかい」と簡単にOKしたのは先の記者を通じての「行かせなければ辞める」のサインが届いていたせいである。しかし「全権委任」の委任状はなかなか北京には届かず、またまた園田をいらいらさせた。
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それでもまだ園田は首相との糸を繋いでいたかった。「ナベシャン、福田さんは羽田空港へ迎えに来るかね」と言っていたからだ。これまでの経緯を考えれば福田さんが迎えに来るわけがない。そうかね、奥さんが来ないかね、と可哀想なほどしつこかった。案の定、羽田には首相側近は誰も見えなかった。園田はそこで福田と切れた。
その秋、イラン訪問に夫人や越智夫妻を同伴させるのを強烈に私に批判して見せたりした。
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振り返ってみて福田は七十を過ぎて確かに政権を獲ったが、最後まで官僚の臭みが抜けなかった。たとえば当選間もない森喜朗代議士が金欠で「七十万円下さい」というのへ「五十万にまからんか」と言ったのは大蔵省主計局長の癖と評するのは好意的な方だ。それを聞きつけた田中が三百万を与えてキミ、カネは邪魔にならんよ、とすましたと聞けば角福戦争の帰趨は予めわかった。それを清潔、潔癖だと人は言わない。党人の心を読めない人と人はいう。同じ官僚上がりでも岸にはこういう話は伝っていない。
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まして手練手管の人・園田と組むには余りにもミス・マッチの要素がありすぎた。それなのに園田を福田に持って行ったのは重政誠之(しげまさせいし)である。共和製糖事件で有名になったが園田とは河野一郎派同士。重政は農林事務次官、福田は大蔵官僚として別懇だった。その関係で園田を福田に引き合わせたのである。園田が福田に惚れて接近したのではない。重政はすでに引退していたが園田のその後をいつも心配して外務省を訪れていた。だが程なくして逝去してしまった。そのことも二人を引き離す材料になった。