日本国際問題研究所の大仏理事長

渡部亮次郎
皇太子妃雅子様のお父上小和田恒さんからの挨拶状が届いて、ご自分が2月に国際司法裁判所判事として赴任した後の(財)日本国際問題研究所の後任の理事長には、かつても国連大使の後任だった佐藤行雄氏が2月1日付で就任するとの知らせだった。

この二人は今から25年ぐらい前の昭和51年ごろ、小和田氏は福田赳夫内閣総理大臣の秘書官、佐藤氏はアメリカ局の安全保障課長という関係だったが、1年しての内閣改造で園田直官房長官が急遽、外務大臣になって佐藤氏の運命が変わった。型破り外務大臣の秘書官の務まるのは「大佛、君しか居らん、頼んだぞ」と有田圭輔次官、松永信夫官房長に口説かれたもののいやですと雲隠れしてしまった。

就任したばかりの安保課長の仕事からはなれるのが厭だったからとか後でいろいろ言ったが、要するに官房長官時代の園田氏の外務省いじめが気にくわなかったので、出来たら逃げおおせたかったらしい。なんと認証式をする宮中に従いて行ったのは政務秘書官の私だった。佐藤さんは鎌倉の大仏のある長谷寺の次男坊だった。

しかし幹部の睨んだとおり、佐藤秘書官はたちまち園田を丸めてしまった。既に園田氏が糖尿病から来る視力減退を見抜き一切の書類を見せずに、耳元で読みあげ、大臣のOKが出たら花押(かおう)を書かせるのではなく自分で「ご了承」と書き込んで決済終了。もともと東大を3年で合格して外務省入りしたぐらい頭脳はすぐれている、洞察力もある。

なによりも酒を引っ掛けながら桝目の用紙に論文を書いているのが好きだという緻密さ。園田も野戦上がりの将校ではあったが頭は格別にいいから、二人の意気はぴたりと合った。折角NHKを捨てて秘書官として駆けつけた私が外務省でやる仕事は殆どなくもっぱら国会や各派閥の情報収集に専念していればよかった。園田を長く閣僚としてつづけさせるための戦略と戦術の検討。

小和田総理秘書官と佐藤大仏秘書。二人の間は始めこそ粛々と進んでいるようになっていたが、やがて日中平和友好条約の締結交渉をめぐって、あろうことか総理と外相が対立するようになるに及んで窮屈なものになって行った。しかも両者の対立は外相は自分で北京へ乗り込んで交渉し纏めてくるんだ、と決意しているのに、総理はすべてを役人にやらせ、締結調印すら在北京の佐藤正二大使にやらそうという対立であった。条約を挟んだ政治的なな対立に発展したのである。

しかしこのことを両秘書官は知らないし福田御曹司秘書官も勿論知らない。いずれも密約を見ていないからだ。
対立の原因はこの「大福密約書」にある。福田内閣発足に先立って品川のパシフィック・メリディアン・ホテルに福田側から福田と園田。大平側から大平と鈴木善幸が出て密会。@総裁任期は2年に短縮しA大平は幹事長として福田をささえる・・・と便箋に善幸が書き、皆が署名捺印したり、花押をかいて確認した文書である。

保管者は園田。この解釈は明らかに福田内閣の任期は2年に限られている。しかし折からの深刻な不景気だから、園田は何とか大平に頼み込んであと1年は延ばしてもらおうと工作していた。ところが福田は園田を官房長官という恰好の場から追放してしまった。あろう事か外務大臣として残せる実績は日中平和友好条約の締結以外にないのに、福田さんはそれを俺にやらせない画策をしている。園田のハラはにえたぎっていた。幸い小和田さんのとりなしでそんなことにはならず、園田は無事、北京へ特別機で行った。

流れて幾星霜。小和田さんは事務次官をおえて本当なら外交官の頂点たるアメリカ大使として」ワシントンに赴任したかった、しかし外務省を継いだはずの長女雅子が皇太子妃になることになってみれば、横たわる政治経済対立問題の余りに多いアメリカ大使は如何かという政府の(いらざる)判断で国連大使におしこまれてしまったのだった。

その分、小和田さんは国連を少し長くやって後輩の人事の順序を狂わせたと言われた。また、国際研究所の理事長も国際司法裁判所判事の前任者の任期が満了となるまで在任を長引かせたと批判するものもなかったわけではない。それで小和田氏の後任は総理秘書官の後輩ではなく外務大臣秘書官がつとめられるという幸運をひとつうんだわけである。

お茶の水大学で数学の教授をしている藤原正彦氏はアメリカとイギリスの両方へ留学した経験があるだけに両国の歴史と文化について鋭い目を持って分析し、返す目で日本をみつめておられる数少ない人である。その藤原氏が2003年1月30日の産経新聞「正論」で論じておられたが、日本には今、長期戦略があるようには思えないという。

アメリカでは日本が日露戦争に勝ったと喜んでいた明治39年に大統領の下問で早くも来るべき日米戦争を予測した戦略構想をたてた。37年後それが現実となり、日本はその時のプラン通りにやられて負けた。

「長い冷戦が終わった時もCIAは「Japan2000」という日本やっつけのプロジェクトを作らせて日本経済のひきずり降ろしにかかった。ビッグバン、市場原理、グローバリズム、小さな政府、規制緩和、構造改革、リストラ、ペイオフなどが90年代から日本を席巻し、その間に日米経済は逆転した。アメリカの長期戦略にはまった以外の何物でもない」と藤原氏は言っている。

翻っていま、わが国には長期戦略があるようには思えない。日本国際問題研究所が密かにそれを研究しているなら実に喜ばしいことである。ならば長い時間、幹部としてあそこに居座った外交官OBは必ずや大きな遺産を置いていったに違いない。まさか米中の顔を見てのその場限りの短期的な判断だとしたら悲しい。