首相候補夫人の恋文

渡部亮次郎
二月に末に古い日本映画「迷走地図」という松本清張原作の政治映画をCATVで観た。清張は架空の事件を題材にしたといっただろうが、私の体験では、日本の政界には確かに下敷きになる首相候補夫人のラブレター盗難事件というのがあった。私にとっては良い機会だからできるだけ整理して記録しておこう。

各社の政治記者といっても、たとえば自民党総裁(首相候補)選挙の取材で、ある特定の一人の候補者を追う仕事となると記者たちはライバルが仲間になってしまうことがよくおきる。あえて日付をぼかすが、七〇年安保から間もない頃とだけ言っておこう。六本木で焼きそばを食べてからある派閥のナンバー2のKの事務所でとぐろを巻いていた。その時J社のY君があの話をまた披露した。

「あの総裁候補夫人がまだ若いころ、次男坊のところにやってくる東大出の家庭教師と恋仲になったそうなんだ。子供がした計算紙の裏とかノートの切れ端とかに書かれたものだが、内容は夫人から一方的に書かれたラブレターそのもので、何十通とあるのさ」と軽く紹介した。

その時代議士のKは聞くとも無く聞いている風だった。私はそのまま忘れた。
ところがその手紙の束は突然入った泥棒に盗まれてしまった。もはや行方知れずとのことだ。その時、私とY君は途端に顔を見あわせた。そうさ、お前の話を聞き流すふりをしていた代議士Kが直ちに手を回して盗ませたのだ、と。以後、ラブレターの束の行方は知らないが清張はタネにした。とにかく置いてあった東京・五反田だかのアパートの部屋は上から下からめちゃめちゃに荒らされていて、初めは何を目的にしたもの盗りだか見当がつかなかったという。幸いカネとか重要なもののない貧乏アパートの盗難事件として闇から闇へ葬られた。

三〇年以上の昔の出来事だが、私は密かに昔は院外団を左右した経験も有るといっていたK代議士と言うのは英国紳士風を気取りながら、真実は後に人気番組になった必殺仕掛け人を操れる恐ろしい人だと思ったものだ。
映画では首相が総裁再選を意図するのに対して、党人派の実力者が京都在住のフィクサーから用立てた二〇億円をばら撒いて圧倒的な対抗馬としてはだかるが、ばら撒き役の幹部が例のラブレターの束を示して「こんなのが出てくるようじゃやってられない」と袖を分かって去る。党人派は消沈し、遂に今回は立候補を断念する。

ラブレターをもらった家庭教師(映画では秘書となっているが)は総裁選挙の途中、突然辞めて中東へ行き事故死するのだがラブレターの束の入った貸し金庫の鍵は女房ではなく同級生で全共闘崩れのライターに預けて行っていた。ライターは総裁候補夫人に一億円でなら返すと持ちかけるが,その晩に三派全学連の内ゲバを装った強盗に部屋で殺害されラブレターは奪われる。

それがカネ配りの手に渡り、総裁候補に差し出され、彼の立候補断念の材料となる、と言うわけだから、強盗をやらせたのは誰か、観客には一目瞭然だ。金配り役は伊丹十三が演じているが、何故かダミ声を懸命に出しているのが気になった。また映画の通りだとすると、ラブレターの束の存在を知っていた私たちも殺されなければならない。

ロートルの若いころには政局にからむ色っぽい話や小道具は一杯あった。だがそれを巧みに小説に仕立てる器用な者はいなかった。小説家が政治家になっても政治家が小説家になって成功する例は寡聞にしてなかった。
戦後政治のうちでも吉田から鳩山、鳩山から岸、岸から池田、池田から佐藤、佐藤から田中。そこで展開された様々な生臭い事件、エピソードに絡めて実在の人物によく似た扮装をさせ情痴をまぶしてこのような映画は出来ているのだが、「迷走地図」は一番のできのようだ。

以上の話について当時、原作者の清張氏を「政治」に「案内」した政治記者に伝えたところ「ラブレターの実物は粗末な紙に走り書きされていた。清張氏は政界の「ゲーム」としてよりは、ラブレターを巡って展開される人間模様に関心があったようだ。また映画を監督した野村芳太郎氏は関係者からかなり厭がらせを受けたと聞いている。政治の背景に生きる女性を通じて権力争いを描いたようだ。懐かしく思い出した」と語った。

また先輩記者が教えてくれたところによると、時代の下ったころ、別の総裁候補の夫人も子供の家庭教師に夫との不仲を嘆く手紙を送り、それがライバルの手に渡って「立候補を断念しろ」と脅されていたという。先輩は脅しをした人物(現役)を指して「あいつは本当のワルだ」と非難している。
こんな話は一見、昔話のように見える。しかし権力争いと人間の本質が変わらない以上、姿形を変えて現在に繋がっているのではないだろうか。