ジョン・レノンの印刷所

渡部 亮次郎


ジョン・レノンを知らなかった。訳の判らないうちにニューヨークで夫妻に会って、イタリア街で共に食事を戴く羽目になったのだ。気がつけば外は大変な人だかりになっていた。ジョン・レノンて誰なんだ。
私はその何ヶ月かまえ、NHKの記者から政府の外務大臣秘書官になっていた。そこへ友人の加瀬英明がやってきて「ナベちゃんは今までアメリカへ行ったことが無い。外務大臣の側近がいまだにアメリカを知らないと言うのはあなたの恥だろう」と言ったら園田直外務大臣は二人に黙って大金をくれた、行って来いというのであった。

私と加瀬さんとは文芸春秋での繋がりである。共に昭和11年生まれ。彼はアメリカ留学直後から文春の常連執筆者だった。一方私はどういうわけか文春の看板コラム「赤坂太郎」に指名されて一字10円で政界夜話を書いていた。NHKの月給より高かった。編集長の紹介で二人は知り合いとなった。ところが加瀬さんと園田さんはもっと古い「友人」だったのだ。たとえば二人はよく柳橋で芸者をよんで呑んでいた。なぜだ。加瀬さんの父親俊一(としかず)が外務省高官であったころ園田氏は外務政務次官として加瀬家に出入りしていた。英明氏は高校生である。それを園田氏は柳橋に連れ出して芸者遊びを教えたのである。二人はそういう「友人」だったのだ。私がアメリカを学びに行くことを二人は初めて柳橋に行く時の高校生・加瀬のように思っていたことだろう。

加瀬氏ははじめにロス・アンジェルスに降りた。目的地はニューヨークかワシントンだった。そのためには当時、羽田からはアンカレッジに一旦降りるしかなかった。加瀬が言うにはロス・アンジェルスで遊んだ方がいい、アンカレッジなんか詰まらん、という。詰まるも詰まらんもお上りさんとしてはハイハイ。それが良かった。

ロスは解禁になったばかりの「ポルノ」の街のはずだった。昨日まで記者だったから、その程度のことは知っている。
総領事館から案内があって「ポルノ」映画館に入った。今の若い人にはわかるまいが、その頃の日本では性器はおろか毛の一本が映っていても雑誌は「発禁」だった。だから私はポルノに興味津々だった。だから折角ならポルノ映画鑑賞を言ったのだ。
ひょいと見回すと、観客は3人しか居ない。要するに我々だけだ。アメリカ人の観客は一人もいないのだ。なぜだ。一度みれば二度と観たくないのがポルノなのだなあ。私は42歳になったばかりだった。

ダコタ・アパート。それがジョン・レノンの自宅だった。生まれて初めて見るニュー・ヨーク。「ナベさん、ビルの階を数えちゃダメだよ、首が折れる」加瀬氏の冗談とも本気とも取れる言葉を聞きながら御のぼりさんは興奮しているうちにセントラル・パークに接して聳えるダコタ・アパートに着いたらしい。
エレベーターが着いたら若い茶色の頭をした男が立っていて握手をした。男は幼稚園児みたいな男の子を抱えていた。ショーンといってヨーコさんとの一粒種だった。玄関ホールが30畳ぐらいあり,そこに三角屋根を幾つも張って、今、三角のエネルギーを体内に受け取る研究をしているんだ、とのことであったが、要するにわからなかった。
加瀬氏が近況を尋ねたところ、もう歌うことはしないという。どちらかと言うと主夫だよ、そのほうが楽しいよ、と。「私は英国リバプールという風の強い町の坂の上で育ち、海からの向かい風に向かって話すような育ちをしたから、叫ぶように喋る癖が残っている」と妙なところで恥かしがっていた。

やがて夜になりアパートの玄関に降りたら、やたら長い運転手付きの大型車が停まっていた。田舎者が初めて乗るこれがリムジンというものだった。何しろ生まれて初めてのニューヨークである。どこをどう走ったか判らないうちに細い路地の入り口で降りた。イタリア人たちが固まってレストランを営んでいるイタリア街であった。隣の区画は中華街で仲が悪いとのこと。
髭を伸ばした主人とはもちろん顔馴染みなのだろう、気安く会話を交わしていたが、こちらは久しぶりに美味しいものにあって夢中だった。なにしろロサンジェルスで食べたステーキは固くて食えなかったし、海岸べりのシーフード・レストランとやらでの焼き魚は醤油が無いので散々だったから腹が減っていたのだ。加瀬氏は外交官の息子でアメリカ留学生だったが、何故か料理の好みは和風である。だから彼もイタリア料理には満足していた。ひょいと窓を見るとジョン・レノン来るを聞きつけて老若男女が何十人も外で鈴なりしていた。それでようやく相手が世界的な人気者とわかり出した。

ヨーコさんを先に帰してから、恥かしそうにジョンは秘密の場所に案内したいがいいか、と聞いてきた。もちろんOK。
いま思い出すとそこはマンハッタン島の北であった。丘みたいなところにある古い工場であった。2階に案内されて行くと4人ぐらい、若い男女がおり、印刷していた。なんですか、これはと加瀬氏が聞くと、間近に迫ったヨーコの誕生日にモナリザをプリントしたスカーフを贈るべくヨーコの顔写真を使って製作中である、ヨーコはモナリザによく似ているから、素晴らしいスカーフが完成しつつある。ヨーコには秘密だよ、何しろこっそりと完成させるためにこの印刷所を買収したのだからというので、金持ちぶりに飛び上がった。

ナベちゃん,驚いちゃいけないよ、アラブの金持ちが先日、ロンドンのデパートであるものを指差したので、店員がはい、こちらでしょうかと聞いたところ石油成金曰く、いやこのデパートを売ってくれと言ったそうだぜ、と加瀬氏。なるほど、世界の金持ちはケタが違うね、と沈黙。
今その時のメモを読み返してみると、ジョンはレストランで「ポール・マカトニーを日本に呼んで一儲けしたらどうか」と言った。だが帰国後調べたら、マカトニー氏はマリファナ吸引者として法務省のブラックリストに載っていて入国を拒否されていた(その後はOKとなった)。ヨーコさんの誕生日は1933年2月18日。モナリザ・ヨーコのスカーフは美しく出来上がったのだろうか。
ジョンは約2年後の1980年12月8日に玄関前で狂的ファンに射殺されたこと、ご承知のとおりである。まだ40歳だった。