童謡は唱歌の敵なのだ

渡部 亮次郎


元外交官の碩学・岡崎久彦が著作で二字を書き落としたばっかりに国語学者か日本語学者かの高島俊男から2003.4.3の週刊文春「お言葉ですが・・・」で食いつかれている。後に「百年の遺産」として産経から発行されたが、産経新聞連載中は第43回「大正デモクラシー回顧」で流行した子供の歌を「童謡」として一括りしたのが誤りであった。だが、昭和10年代に生まれた私でも同じ誤りをこれから先にもするところだった。童謡は唱歌の敵であることを知らなかったのである。

岡崎は著書で<・・・大正の雰囲気を今に伝えてくれるものとしては童謡があります。故郷 大正3年。朧月夜 大正3年。浜辺の歌 大正7年。かなりや 大正8年。靴が鳴る 大正8年。青い目の人形 大正10年。赤とんぼ 大正10年。花嫁人形 大正12年。月の砂漠 大正12年。証城寺の狸囃子 大正13年。これほど平和な心の安定から生まれた歌が、他の時代にあるでしょうか。>というものだが、高島は<おいおいちょっと待ってよ。「童謡があります」といいながら、冒頭から「故郷」も「朧月夜」も「浜辺の歌」も小学唱歌じゃないか。歌詞を見たってわかりそうなものだ。「兎追ひしかの山」「見わたす山の端霞ふかし」「昔のことぞしのばるる」――そんな童謡があるものか。まったくズサンな人もあるものだ>と毒づいた、とある。

碩学も子供の歌に関する時代考証は私と同じレベルで苦手らしい。外務省に私が園田直(すなお)の秘書官として従いて行った時、岡崎は今で言う国際情報局長だった。後で説明するとおり著作では「童謡」とせずに「唱歌・童謡」と二字追加すれば高島の餌食にならないで済んだ。尤も高島も週刊文春の誌上では岡崎とは書かず「元外交官」とぼかしているが。

岡崎が先に上げた歌はなぜかみんな知っている。しかしどこで習ったか、覚えたかは明らかでない。昭和17年4月に入った国民学校(小学校)か中学で習ったとすれば、それは「唱歌」であり、それ以外のところで覚えたり聞いたりした歌なら「童謡」というべきなんだそうだ。
なるほど広辞苑にちゃんとある。
唱歌(しょうか)旧制の小学校の教科の一。1941(昭和16)年から音楽と改称。主として明治初期から第二次大戦終了時まで学校教育用に作られた歌。「小学校唱歌集」。とある。

童謡(どうよう)子どもが作って口ずさむ歌、または詩。童心をそれにふさわしい言葉で表現した、子供のための歌、または詩。民間に伝承されてきたものを「わらべうた」という。大正中期から昭和初期にかけて北原白秋らが文部省唱歌を批判して作成し、運動によって普及させた子どもの歌。
全く知りませんでした、ごめんなさい。岡崎さんも災難でした、有名税です。
「兎追ひしかの山」を兎(の肉)美味しい・・・と思いこんで歌ったりするのは、今の時代では文語というものを一切使わなくなったから仕方が無いと思ったりするが、既に大正の時代から文語を子供に強要する唱歌とはけしからんという運動があったのだ。

1、 唱歌は文部省が作った(あるいは選定した)歌であり、童謡は民間の詩人、音楽家が作った歌である。
2、 したがって童謡は個別の作者があるが唱歌にはない(こんにちの唱歌集には個別の作者名を書いたものもあるが、それは戦後研究者が調査して突き止めたものであって、元来は作者名は公表されていない。これは他の科目の教科書も同じ)。
3、 唱歌の」歌詞はおおむね文語であり、童謡は口語である(低学年の唱歌にはいくつかの口語のものもあるが)。
4、 唱歌は子供を教育する手段であり、童謡は子供を讃美した芸術である。というのが高島のまとめであるようだ。

しかし、先に亡くなった山本夏彦は名著「完本 文語文」を残して「私は文語文を国語の遺産、柱石だと思っている」と文語文に執着したが、時既に遅し、だ。文語って何だと聞かれて答えられる教師も少なかろう。
同様に私たちは漢文を知らない大新聞の記者の文に接する不幸な時代を生きなければならない。馬から落馬するじゃないが、まだ未成年だという文章を朝日新聞でも散見するようになった。文語を捨て漢文を捨てて新に何によって昔に優ったか。(文中敬称略)