”ジープ”は逝ったよ

渡部 亮次郎


”ジープ”という名の名物教師が、2003年5月初めに逝ってしまった。80を遥かに超してはいたが、本当に恩師といえる2人目を失った。このことで同級生の矢野恵之助(えのすけ)が感激的な追悼文を地元の秋田魁新報の5月21日付け夕刊に綴った。それを読んで私は泣いた。

ジープとは始業のベルが鳴り止むかやまない内に教室に到着する先生だった。余り早いから進駐軍の乗り物の速さに掛けてジープとあだ名を先輩たちがつけた。本人もそれを知っている国語の教師だった。いま考えればあの頃はジープは30台後半だった。

国語の教師にもいろいろあって、詩人もいれば漢文の得意な先生とかあったがジープは漢字一筋だった。たとえば「国」と言う字の四隅が離れていたら罰点だった。満点を獲ろうとしたら答案の「校正」を実に念入りにしなければならなかった。それでもジープは欠陥を見つけて減点してきて、終いには校正競争になった。私の場合にはこれが後にNHKのニュース・タイトルを扱う仕事でどれほど役立ったか、計り知れないから、50過ぎた頃、そのことを感謝する手紙を書いたものだ。ジープはとても喜んでくれたと人づてに聞いた。

もう一人の「恩師」は、密かにビタミン注射を射って脚気を治してくださった中学の先生だが、それはともかく、高校生のたった一杯の焼酎をとがめた教師に対抗して「まあ上がれ、一杯やれ。寒くて凍えちゃうから」と深夜、”燗冷まし”で元気付けてくれたジープの温かさに矢野がしびれたことである。矢野はこの話をどこかに書き、私には何度も語ってくれたが、何回聞いても感激に泣けてくるのだ。

矢野は盆踊りで全国的に有名な土地の呉服屋の跡取り息子だった。裕福な家だったので早くから秋田市内に下宿して進学校に通った。私とは県立秋田高校2年の時に同級生になった。私は進学にさして関心なく、たばこはやらなかったものの、酒は晩酌を続けて、母親も黙認していた。父は夜は殆どどこかへ出かけて、いなかった。小説書きにかぶれたり演劇部に顔を出したりして矢野と近くなっていった。矢野の酒のことは知らなかったが、たばこはすでに両切りのピースを吸ってるのを知っていた。事件は卒業間際の冬2月大雪の夜に起きた。

矢野はやはり下宿生で医者の息子のYと市内場末の呑み屋で焼酎を呑んでいた。学校のすぐ近くだ。二人が酒の本当の味を知って呑んでいたとは思えないが、突然そこへ体育の教師二人が入ってきてしまった。二人をつけたのではなく、彼らも焼酎が飲みたくなって入ってきたのである。しかし、なんとも言い訳は出来ない。目前に焼酎がコップに入って置かれているのだから。教師は言った。「卒業証書が貰えなくなるぞ」。私には名前を言われなくても、体育教師二人のことは実に陰険で厭な奴だったから、その目つきと共に矢野たちが油を絞られたところが目に浮かぶ。

二人は冗談半分と思いながらも、とにかくと思って演劇部長のF先生に縋りつこうと思って自宅を目指した。雪国秋田の特に大雪の夜である。ワルぶるとは言いながら、青くなって行く少年二人の姿も目に浮かぶ。
ところがタクシーの中で軍資金が尽きた。ここは茨島(ばらじま)か、そういえばここにはジープの家があったな。夜12時過ぎにも拘わらずジープは起きてきて、二人の話を聴いた。

<話を聞くと、台所に居たらしい奥さんを「オーイ」と呼んだ。寝間着の上に銘仙の羽織をひっかけた奥さんが、恥かしそうに顔をだした。・・・「母さんヨ、この人達に、夕飯のときのお酒があるだろ、燗冷ましで悪いけど、あっつくしてさ、飲ましてやってくれヤ。寒くてシミて(こごえて)しまうべヤ」「父さんがそういうべと思って熱くしましたヨ」。それは実に阿吽(あうん)の呼吸であった。お盆の上に二つのコップに入った熱い酒と、ちくわの煮付けとタクアンの丼があった。酒を飲んだのが見つかって、どうしたらいいか相談に来た高校生に、まず熱燗の酒を飲んで体を温めよという、この教師の爽快さはどうであろう。>

二人は処分を免れた。大学に進み、立派な社会人生活を送っている。
矢野も言う如く、机の上の教科書で教わることよりも、人生を生きて行く上での生き方を教えられる先生は少ない。人生の道程の中で師は無数だが、<生涯、折りに触れて「恩師」と呼べる師は、果たして何人居るだろう>と矢野は書き、ここ十数年、西瓜を持ってジープを訪ねるのが夏の行事であったが、今年はひとしきり恩師の感傷にひたって、線香を上げて来ようと思っている、と結んでいる。私にすれば良い師と良い友人を持ったなあとつくづく思う。矢野はこの話を5月6日の弔辞で披露した。(県立秋田高校卒業生)