北上の清き流れに

渡部 亮次郎


 2003年5月初め、久しぶりに東北を訪ねた。元勤務したNHK盛岡放送局の記者、カメラマン、編集者のOB会という会に出席したあと郷里秋田を久しぶりに訪ねるという旅だった。新幹線は仙台―盛岡間を1時間足らずで走る。在来線では半日かかり、出張は1泊2日だった。
 緑しかない東北だが、東北の緑ほど美しい緑は無い。5月といえば東京の緑は既に薄汚れてしまっているが、福島あたりから先はまだ若緑だ。たとえばこれを秋田県の角館から鷹角(ようかく)線に乗ると約50キロ、渓流と併せて新緑が見られる。だからここは紅葉も美しい。

 私は1960年から盛岡に満4年在勤してNHKの県政記者をやったが、岩手県内に渓流の美しさを見るたびに貧困を感じて暗くなった。即ち山紫水明というけれど、山が紫とは雑木林のことだろうし渓流が濁っていないのは山肌が石で出来ており、そこには雑木しか生えないことをしめしている。雑木は木炭や薪にしかならない。カネになる松、杉,檜(ヒバ)などは生えない。山紫水明は貧しい山の代名詞のように思える。

 盛岡郊外、小岩井牧場周辺など岩手山周辺の土地にはせいぜい野菜しか植わっていない時代が長く続いた。火山灰による酸性土壌だから作物の種類に限りがあった。カネになる稲を植えようにも田圃の水持ちがいけない。せいぜいソバを植えるしかなかった。
ところが戦後、ビニールというものが出来て革命がおきた。岩手山麓でも水田の底にビニールを敷けば水は漏らないことになったから畑から水田への転換が大いに行われた。滝沢(当時は村)では特に盛んだった。岩手はそうやってアワ、ヒエと縁遠く成って行った。

 その頃の北上川はひどかった。水が真っ赤だったからだ。それは上流にある松尾村の硫黄鉱山から流出する排水をそのまま北上川が受けていたためで、柔らかに柳青める、と啄木が宣伝してくれても、北上夜曲が唄われても、水清き流れが実在しないものだから来た客はがっかりして帰ったものだ。またリアス式の三陸海岸も肝腎の道路が未開通ではどうにもならなかった。従って観光資源は無に等しかった。松尾の開拓農民が逃散した跡地を県が坪10円でどうだと東京から赴任してきた記者たちに誘いかけても誰も買わなかった。今テレビでキャスターをやっている筑紫哲也氏も薦められていたものだ。
 まだ、東北自動車道や東北新幹線の話は具体化しておらず、知事の演説に「観光」と言う言葉は登場しなかった、と記憶している。

 その北上川の清流がもどった。もどっていたと書きたいところだが、清い北上は初めて見たのだ。花巻のイギリス海岸も無事だろうか。無事だろう。宮沢賢治も疎開していた高村光太郎のことも鮮やかに五月の岩手のそよ風によみがえった。
 そこを5月26日の夕方、大地震が襲った。かつてのチリ地震被害の取材で海岸地帯を走り回った頃を思い出していた。秋田には95の母がいる。