スパイ・ゾルゲ?知らない

渡部亮次郎


この呆けたような平和の時代に暗躍するスパイ、などというものがあるだろうか。そう考えるのが普通だが、監督篠田正浩は映画作り最後の仕事のテーマにスパイ、ゾルゲを選んだ。本当はそれほど魂を揺さぶるテーマである。映画は6月に公開されたが、観には行かなかった。日ソ(ロシア)不戦のために殉じた平和の使徒と宣伝していたのが気にいらなかった。「ゼニのために国を売る奴が何で崇められるんだ、第一ゾルゲはソヴィエト(ロシア)の英雄とされているんだぞ、許せない」と判断したからである。

そう考えながら、1952年生まれの英国人ロバート・ワイマント(ザ・タムズ記者)の「ゾルゲ 引き裂かれたスパイ」(新潮文庫上下 西木正明訳)を読んだ。大人になりかけのころ、日本の国家体制を揺るがした大犯罪と聞いたことはあるが、何しろ事件の一端の発表のあった昭和17(1942)年は小学校(国民学校)1年に過ぎなかったし、戦後、進駐軍によってあらためて公表された時も中学1年生で、結局ゾルゲ事件を正面から真面目に読んだのは67歳の今回が初めてである。読んでみて、ゾルゲもさることながら、新聞記者から内閣の嘱託となったという経歴がなんとなく自分に近い気がして興味を惹かれた。「国家機密を目的は何であれ外国のスパイとはっきり分かっている人間に渡すとは、いかなる心境によるものか」と。いずれ、私ですら理解が良く出来なかったゾルゲ事件だが、スパイというものは売春と並んでこの世で最も古い職業という説もある以上、普遍的であり、小さなスパイ事件なら今の日本でもしょっちゅう起きているから、後学の参考にはなるだろう。

リヒアルト・ゾルゲ(Richard Sorge)は1895年、ドイツ人を父、ロシア人を母として生まれた。
<一家は砂ぼこりの舞うアゼルバイジャンの中心都市で、カスピ海に面した港町バクー市中心街に近いサブンチの、アカシアの木を陽よけにした木造の大きな屋敷で暮らしていた。リヒアルトの父ウィルヘルムは、スウエーデンのノーベル社に高給で雇われた石油採掘技師だった。当時このカスピ海沿岸の油田地帯に群がった、外国人技師の一人である。>

第1次大戦に参戦して負傷。ドイツで療養中に共産主義思想に染まり、ドイツ共産党に入党。ベルリン大学卒業後、25年にモスクワに行き、コミンテルン(欧州共産主義連絡機関)情報局とソ連共産党でスパイ教育を受けた。ワイマントの著作ではゾルゲはごく若い頃から女性にすごくもてたと書かれている。

ソ連のスパイとなったゾルゲは第1の派遣地として中国を指定され、ここで朝日新聞特派員の尾崎秀実(ほつみ)やアメリカの女性記者スメドレーらと知り合う。特に尾崎との交流の中で、中国大陸に攻め入ってくる小国日本に対する興味を募らせ、本部を説得して日本入りする。1933(昭和8)年9月6日午後1時のことだった。幸いにしてドイツの新聞フランクフルター・ツアイトウングの特派員として。
しかもゾルゲは巧みに在日ドイツ大使館の館員を篭絡する一方、折から権力を握ったナチスの党員になることに成功した。巧みなる弁舌とたゆまざる勉学が「熱烈なるドイツ愛国者ゾルゲ」をつくりあげた。

時を経ずしてゾルゲは尾崎と再会。尾崎は尾崎で共産主義思想に目覚めていてゾルゲに好都合だった。しかも尾崎は朝日新聞記者から南満州鉄道社員をへて近衛内閣の顧問に就任、国家機密に当然の如く近づくことの出来る地位に居た。
ところでゾルゲに与えられた使命は「いま中国と戦っている日本がシベリアに攻めてくることはないか。攻めて来るとすれば何時か」を打電することだった。これに対するゾルゲの回答は「なし」。それよりも「ヒトラーはソヴィエトと条約を結んでおきながら、侵攻しようとしている」との極秘情報を在日ドイツ大使館の大使や武官から得て欣喜雀躍しながら打電するがスターリンは無視。身持ちの悪い穀つぶしがなにを言ってやがる、との態度だった。<スターリンは怒りを爆発させて、ゾルゲは日本のちっぽけな工場や女郎屋で情報をしいれているくそったれ野郎だ、ときめつけた。>

ドイツ軍300万はゾルゲの警告と寸分たがわず1941(昭和16)年6月22日,バルト海から黒海にわたる戦線で突如、ソ連邦攻撃を開始してここに独ソ戦争が始まったわけだが、ここから先のスターリンの反応が興味深い。要するにゾルゲの殊勲を褒めるのではなく、それを無視するという失策を知る唯一の証人としてのゾルゲを憎み、ゾルゲを消そうと掛かるのである。権力者とはこういうものなのだ。これでゾルゲはソ連に戻れなくなった。
それでもゾルゲは今度は日本がアメリカと戦うかソ連と戦おうとしているかの問いに応えて「絶対にソ連を攻めることはない。東南アジアに資源(石油など)を求めて南下する。その結果欧米の逆鱗にふれて米・英との戦端を開くことになる」との見解をまとめるが、これは組んだ無線技師のサボタージュに遭って送信されなかった。

ゾルゲがこのように極めて正確な情報をつかめたのはドイツに関しては在日大使や武官から全く怪しまれないナチス党員を最後まで演じとおせたこと、日本に関してはソ連支持者尾崎が内閣顧問として天皇陛下の主宰する御前会議の内容までをゾルゲに伝えたためである。

ゾルゲが一軒を構えていたところは勿論東京空襲で焼けたしまったろうが、麻布の鳥居坂警察署から望遠鏡で寝室をのぞけるところだった。日本は中国との戦争からアメリカとの戦争に入っていた。ゾルゲは表面は同盟国のドイツ人ではあるが、新聞記者ではあるし、折から政府が展開した「スパイを警戒しよう」とのいまでいうキャンペインで警察の監視対象になっていた。また都内から発せられる怪電波。当局も躍起になって発信点を突き止めようとしてはいたが、器械も技術も及ばなかった。

しかし、一般国民には以後詳しいことは何も知らされずに当局によるゾルゲ一味摘発と処刑は終わっていた。
<床に造られた落とし戸の上に連れて来られ,両手、両脚をひもでしばられている間、彼は静かに立っていた。その朝の9時30分過ぎ、忠実な協力者であった尾崎秀実が同じ場所に立って絞首刑に処せられ、9時51分に息を引き取ったことを彼は知らなかった。いま、同じ輪になった綱が彼の首にかけられた。立会人一同が後ろへ下がる。10時20分,足元で落し戸がカタツと開く。体が急降下して、綱の先端で宙吊りとなる。16分後の10時36分、検死官がリヒアルト・ゾルゲの死を宣告した。>日本の敗戦の色濃い1944(昭和19)年11月7日のことだった。

一連のことは、敗戦4年目の1949(昭和24)年2月に日本占領軍諜報部(G2)部長ウィロビー少将の報告書として発表され、大きな反響を呼んだ。
警察の摘発の端緒について噂は長いこと共産党員伊藤律の自白だとされた。しかも伊藤は少将の発表後の50年代の初めに日本共産党を除名され「地下にもぐった」。しかし80年に北京に現れて帰国した。死後の平成5(1993)年に出版された回想録において<一貫して自分を陰謀の犠牲者と言い続けている。昭和15年の夏に尋問を受けた時、警察側ではゾルゲ諜報網解体の糸口となった北林トモに既に目をつけていた、というのだ。さらに伊藤は、党の前の書記長野坂参三(平成5年に死去)こそ警察のイヌで、彼がゾルゲ諜報網を売り、>と言って死んでいる。日本共産党は野坂を除名した。

ここでいう北林と言うのはアメリカ帰りの和歌山県人で、アメリカで共産党員だったことから、末端でゾルゲに協力していて、最初に逮捕されたため、長いこと彼女が事件をバラしたとされてきた。
ドン・ファンも真っ青になるもて男のゾルゲ。大酒のみのゾルゲ。勿論ソ連からは報酬や活動資金は受け取っていた。しかし、カネだけのためにスパイをしていたとはワイマントは理解していない。また尾崎はゾルゲからカネを受け取っては居なかった。それならば二人は平和のために命を賭けたといえるのか。私は彼らはマルクスを信奉しソビエトを理想郷にしようとしていたのだと思う。今の世では余り見かけなくなったが、思想に命を賭けられる人間は存在するのである。従って当然のことながら国家とか国民のために職を捨て名誉を守る人間もいるのである。

ドイツ生まれのユダヤ人マルクスがロンドンで書いたとされる「資本論」は20世紀の幻だと思うが、スターリンにそそのかされて立国した二つの隣国はいまだ夢から醒めずにいる。(敬称略)