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Who ?と言われた首相
渡部 亮次郎
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鈴木善幸さんが7月19日に93歳で亡くなったので,新聞各社は夫々評伝を載せて前首相への敬意を表した。首相に就任した時は、いわゆる実力者ではなかったので、外人記者たちは「ゼンコウ ? is who」を連発した。国内でだって今になって見ると、何故、善幸さんが首相の座をつかめたか、改めて解説されないとわからない人が多いだろう。
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朝日は北海道支社長に評伝を書かせていたが、産経は1日遅れながら退職した阿部穆(あきら)元政治部長を引っ張りだして評伝を書かせていた。さすがに優れた評伝になっていた。阿部氏のルーツは善幸さんと同じ岩手県であり、若い頃から特別の付き合いがあったらしく「私の最終的な望みは衆議院議長だったが、まさか首相になるとは」と言う生前の本心を聞き出している。
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阿部氏が指摘する如く、善幸さん(宏池会)が首相になれたのは、それまでに自民党内の抗争が過ぎたからである。角福戦争、三木降ろし、大福戦争と10年近い党内抗争に実はみんな疲れていた。その再後の犠牲が大平正芳首相の急死だった。
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その辺りを元共同通信社常務理事の古澤襄氏が回想している。<三木内閣の末期のことだが、「宏池会」と「清和会」(福田派)の大連合である"大・福提携"の話が持ち上がっている。発案者は保利茂。佐藤栄作の側近だった保利は、福田首相・大平幹事長のコンビを作り、ポスト三木の受け皿とするつもりでいた。その裏には田中角栄封じの策謀があった。
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(しかし)池田内閣の頃、党風刷新連盟(清和会の前身)を作って池田政権を揺さぶった福田赳夫に対する大平派の反福田感情は根深いものがあり、この動きに真っ先に反対したのが善幸さん。「大平派内で福田の名をあげることはタブー」と言っていたが、田中角栄は「三木を倒すことが先決」と"大・福提携"を容認している>
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NHK記者の私は角栄側近に飛ばされた大阪から東京に戻って来てはいたが、海外放送部門に捨て置かれたので、古巣の自民党福田派に足繁く出入り、特にNo.2になっていた園田直(そのだすなお)氏には請われるままひっついていた。だから古澤氏のいう「大福提携」の動きには密着していた。あの時、私が政治部に戻っていたら園田氏も私の密着を許さなかったろう。
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再び古澤氏の回想。<昭和51年10月20日午後6時から品川の京浜ホテルで、保利が立ち会いのもとに福田赳夫、園田直、大平正芳、鈴木善幸の5者会談が行われた。その10日前に保利と大平はゴルフをやったのだが、保利は「昭和51年と52年の2年間でよいから福田を総理にしてくれないか」と大平にさりげなく囁いたという。
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策士といわれていた保利の囁きだから、大平も全面的に2年間の約束を信じたわけでもあるまい。2幕目があって園田直が、福田赳夫と大平正芳立ち会いのもとに2年間の約束事を文書で確認させている。善幸さんの気持は複雑だったと思う。「大平は何故、田中角栄の力を借りて政権を奪取しないのか」と自問自答している。
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京浜ホテルの5者会談の後に池田内閣の総理秘書官だった伊藤昌哉さんが、会談の様子を大平に聞いたら「保利が福田と私の前で、福田は2年と述べた」と短く言っただけで、しばらく考える風情だったという。伊藤昌哉も"大・福提携"で動いた一人であった。暮も押し迫った12月24日に三木内閣は総辞職、福田は首班に指名された。新内閣は園田官房長官、鈴木農相。この2人が団結して、福田の組閣が順調にいったと大平は回顧している。党人派の2人が大きな働きをしたことは、想像にかたくない。>(杜父魚だより7月21日 うたかたの夢「大・福提携」)
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1年経って福田首相は内閣改造を断行。園田官房長官に対して(記者たちへの)サービスが過ぎたようだな(密約の存在をにおわせた)。どの大臣がやりたいか」と更迭を迫り、暗に建設大臣を示した。園田氏は「利権のあるところは厭です」と言ったところ外務大臣への横滑りが決定した。密約の立会人を露骨に粗末にすることは出来なかった。
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この日の朝、園田氏から自宅へ電話があり「秘書官をやってくれないか、昨夜NHK社会部の伊達宗克さんが新潮社の新田敞(ひろし)さんと来て盛んに奨めるんだ、頼むよ」というので了承した。その時は官房長官秘書官の心算だったが、総理官邸に行ってみると園田さんはあろうことか外務大臣になっており、そのまま外務省へ連れて行かれた。
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面白いことに事務方の秘書官がいないのだ。アメリカ局の安全保障課長を秘書官事務取扱いに発令したのだが、秘書官家業は厭といって省内のどこかへ閉じこもってしまった。仕方ないので取敢えず私が来ましたと官房長が迎えに来ていた。また、皇居での認証式には私が従いて行った。課長は説得に応じて翌日から実に良く働いてくれた。彼がいなければ素人外務大臣が2年も3回もつとまらなかった。彼はその後、国連大使にまでなった。
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ところで「密約」である。園田氏は「全財産」を自家用車のトランクに積んでいた。総裁選挙で負けた福田氏がさらに1年後の衆議院本会議で大平氏と首班指名を争った時、園田氏は福田氏の派閥に所属していながら「密約」を決裁すべく、敢えて大平正芳と書いた。その直後、福田派を除名された。
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その時はじめて「密約」の実物を見せられた。トランクの中の赤い皮鞄に入っていた。B5の紺色の便箋は脇に「宏池会」と印刷されていた。見慣れた善幸さんの字が万年筆で書かれていた。
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「1.ポスト三木の新総及び首班指名候補者には大平正芳氏は福田赳夫氏を推挙す
る。1.総理総裁は不離一体のものとするが、福田赳夫氏は、党務を主として大平正芳
氏に委ねるものとする。1.昭和52年1月の定期党大会において党則を改め総裁の任期3
年とあるを2年に改めるものとする。右について福田、大平の両氏は相互信頼のもと
に合意した。昭和51年11月。福田赳夫(花押) 大平正芳(花押) 園田直(印鑑)
鈴木善幸(花押)」。この席には保利茂氏も立会っていたが、署名は断った、と園
田氏は語った。
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外相になった園田氏は内閣の既定方針どおり、懸案である日中平和友好条約の締結を急ぐが、なぜか福田首相はブレーキをかけ始めた。これは条約締結を花道にされることを恐れだした、つまり「密約」を反古にしようとの腹だと読めるようになったのは53年の2月ごろからであった。「とにかく園田に条約交渉の主導権を渡すな」の秘密指令が外務省事務方に発しられたのである。取材は記者上がり秘書官の特技だ。
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対抗して園田氏は朝の5時ごろ、しばしば田中角栄邸を訪ねるようになる。それでも北京を自ら訪問して条約を締結したのは8月だった。その辺りから福田氏は天が私を求めていると言った発言を繰り返すようになり、秋にはとうとう派内の要望もだしがたくとかなんとかいって密約を反古にした。
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大平氏は自宅で細い目をむいて怒り、田中氏も全力を挙げて福田氏の再選阻止に立ち上がったのであった。朝日や読売は世論調査で福田氏の圧勝を予想した。だが園田氏は外遊先の東欧から何度も電話を掛けてきて「じぇったい大平さんが勝つばい」と譲らなかった。結果はそのとおり福田氏は敗れた。「天の声にも時々変な声がある」と言ったのはこの時である。
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それから大平内閣に対する福田氏の自民党員とは思えぬ策謀が渦巻き、とうとう太平首相は過度のストレスから来る心筋梗塞を起し、あえなく在任途中で急死するのである。「和の政治」を掲げる善幸さんが首相に選ばれるにはこんな経緯が存在したのだ。
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敢えて言えば福田氏の過度の自尊心が鈴木政権を生んだと言えるかも知れない。善幸さんを偲んでいたら慰めるように友人からメイルが来た。<福田は、しょせんは、あれだけの人物。大平政権に対し40日抗争で大平を揺さぶったのは、党風刷新連盟の焼き直し。直さんは福田に愛想をつかしたのではないですか。2年の約束を守って、大平の支えに福田が徹したら、その後の政治は随分と変わっていたと思います。
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大平の憤死もなかったでしょうし、角影内閣も防げたでしょう。中曽根内閣も無かったし、小沢らの離党も無かった。いまさらのように直さんの先見性に敬意を払います。>(了)
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