もう一つの「辻政信論」   古澤襄


六年前の春、「戦後秘史・服部卓四郎と辻政信」を書いた。”作戦の神様”服部卓四郎氏とは面識がなかったが、辻政信・参院議員とは国会の参院議員食堂でよく飯を食った。サンデー毎日に連載した「「潜行三千里」で一躍時代の寵児となった辻政信だったが、私が知る頃は時代の寵児のメッキが剥げてメデイアも相手にしない老人の姿を曝していた。

その頃、私淑していた戦前の陸軍記者・田々宮英太郎氏から奇怪な”辻政信論”を聞かされた。田々宮氏は戦後、共同通信社の政治部記者となり松村謙三さんの側近だった。

その松村謙三さんと富山県福光町の旅館で炬燵に足を伸ばして懇談していたら、辻政信が現れて遙かな縁側に跪き、両手を前に揃えて最敬礼したという。ドテラ姿の松村謙三さんと田々宮さんは面食らって、お互いに顔を見合わせる・・・それが辻政信の初見だったと回顧している。

そんな回顧談を聞いていたので、誰も相手にしなくなった辻政信の話を聞く気になった。折から旧軍人による吉田茂元首相の暗殺計画の未遂事件が政界で囁かれていたことも、辻政信に会ってみようという気になった一因であった。

辻政信は吉田暗殺計画が存在したと認め、「暗殺の時期を見誤らないよう諭し、計画の中止を説得した」と得々として語った。自己顕示欲の塊のような辻政信の言うことだから、にわかに信じることも出来ない。その服部卓四郎氏も昭和三十五年四月に五十八歳で亡くなっている。

盟友を失った辻政信は翌年の昭和三十六年四月四日にエール・フランス機で羽田を飛び立った。ラオスの北東部に当たるジャール平原で殺害されたという噂を残して消息を絶った。

■戦後秘史・服部卓四郎と辻政信 古沢襄

戦後秘史の類なのだろうが、吉田茂元首相の暗殺計画(未遂)があったと、参院議員の辻政信氏が教えてくれたことがある。昭和25年「潜行三千里」をサンデー毎日に連載して、一躍、時代の寵児になった辻氏だったが、昭和36年に旅行中のラオスで行方不明となり、消息を絶った。陸軍の高級参謀として服部卓四郎氏とともに”作戦の神様”といわれた半面、無謀な作戦指導をした張本人と指弾され、毀誉褒貶が分かれた人物。

辻氏は「吉田暗殺計画は、私が中止させた」と言って自慢した。権謀に憑かれたスタンドプレー男と思っていたから、辻発言をにわかに信じる気にはなれなかった。あまり気にもとめていない。ホラの類と思って調べるつもりもなかった。行方不明になった辻氏は、昭和43年に死亡宣告、やがて世間から忘れ去られた。

私の先輩記者に田々宮英太郎氏という昭和史の研究家がいる。存命していれば九十八歳の大長老だったが、二年前に亡くなった。亡くなる直前まで昭和裏面史を書いている。辻氏と同じ石川県の生まれである。

その田々宮氏が「権謀に憑かれた参謀 辻政信」という本を1999年に出した。これ以前にも「参謀辻政信・伝奇」(1986年)を出版している。戦時中の辻参謀の挙動については、いろいろと書かれもしたが、戦後、政界に出るまでの行動は、謎に包まれた部分が多い。田々宮氏はその謎の部分に斬り込んでいる。

昭和27年8月28日に吉田首相が抜き打ち解散の挙にでたが、GHQ追放令から解除されていた辻氏は、石川県第一区から衆院選に無所属で出馬して、6万4900票の最高点で当選している。田々宮氏によると辻氏を焚きつけたのは、自由党佐藤派の木村武雄氏だったという。これに反対したのは同期生の田辺新之大佐。「お前には政治家の素質はない。止めておけ」とズケズケ言われて、辻氏もその時は大人しく聞いていたという。

昭和29年11月に日本民主党が結成されたが、無所属だった辻氏はこの党に加わった。田々宮氏は松村謙三氏に私淑する人であったが、富山県福光町の旅館でドテラ姿で松村氏と懇談していたら、辻氏が現れたという。遙かな縁側に跪き、両手を前に揃えて最敬礼したので、ドテラ姿の皆が戸惑った。松村氏には慇懃な辻氏であったが、肌の合わない岸・佐藤兄弟には、噛みつく奇矯な振る舞いが多かった。

話は敗戦当時の外地に遡る。辻大佐は第三十九軍作戦主任参謀としてバンコクにあったが、その時に先輩に当たる林秀澄大佐と次のような会話を交わした。これは田々宮氏が林大佐から聞いた秘話。

辻大佐「日本の降伏後、東亜の盟主は誰ですか?」
林大佐「蒋介石だよ。蒋介石の反共作戦を援助すべきだ。ときに辻君。重慶に行かんか」
辻大佐「行きます」

八月十五日夜、タイの僧侶に変装した辻氏は七人の部下とともにメナム河畔の寺院に潜み、タイ脱出の機会を窺う。タイに英軍が進駐してきたのは九月二日。東南アジア軍の最高司令官・マウントバッテン元帥は「草の根を分けても辻参謀を捜しだせ」と命令を下していた。

開戦当時にマレー・シンガポール作戦を行った山下奉文中将麾下の第二十五軍にあって、作戦主任参謀だったのが辻中佐(当時)であった。英軍の防衛線を突破してシンガポールが陥落させたのだが、占領後、華僑の虐殺事件が発生している。英軍は虐殺の命令を下したのは辻作戦主任参謀とみている。

辻氏が英軍に逮捕されれば、軍事法廷で戦犯として処刑されるのは避けられなかった。そこで辻氏は運を天に委せて、蒋介石の懐に飛び込む挙に出ている。バンコクのスリオン街に重慶藍衣社の本部があったが、そこに単身で逃げ込んでいる。特務機関・藍衣社のボスは戴笠将軍。

支那派遣軍総司令部第三課長時代に辻大佐は、蒋介石の母堂の慰霊祭を行っている。奇怪な振る舞いなのだが、ご本人は重慶政府との和平工作を考えていたという。田々宮氏は第三課の兼任参謀だった三笠宮が、蒋介石の故郷の写真を持っていて「お母さんのお墓だけでも祀ってあげたいですね」と言ったのを、辻氏が聞いていて”法要作戦”を思いついただけと手厳しい。

だが逃げ込んだ藍衣社では、慰霊祭の殺し文句がきいたらしい。さらに「重慶に赴き、戴笠将軍及び蒋介石主席に会見し日華合作の第一歩を開きたい」と大風呂敷を広げたから、バンコクの藍衣社幹部たちは本気にして、二人の護衛をつけて辻氏のバンコク脱出を助けている。昭和21年3月19日に辻氏は、目的地の重慶に着いた。

しかし一番当てにしていた戴笠将軍が、五日後の24日南京で飛行機事故によって急死してしまった。蒋介石は辻氏とは会おうともしなかった。敗戦国の一参謀将校と国民政府を率いる蒋介石では格が違う。日華合作の第一歩を開くどころか、招かれざる客という扱いを受けている。

蒋介石政府は重慶から南京に還都し、辻氏も南京に送られて、一枚の辞令を交付されている。「史政信 国防部第二庁弁公 部長白崇禧」。第二庁は情報部門で、そこで一介の職員の扱い。昭和23年5月27日に辻氏は引揚船で帰国した。大陸では中華人民解放軍が延安奪回作戦に成功し、風雲急を告げていた。日華合作どころではない。

しかし辻氏の帰国は危険が伴った。占領下の日本では英軍の追及と監視が厳しいと思われた。皮肉なことに祖国に戻って、すぐ地下にもぐることになった。地下潜入を助けたのは服部大佐。旧高級軍人は、いずれもGHQ命令で公職追放処分を受けていたが、これを免れたグループがいる。

戦後政治の中で、吉田元首相と旧高級軍人グループの関係は、GHQ・G2(情報局)のウイロビー少将が絡んで密接であった。たとえば辰巳栄一元陸軍中将は吉田の腹心だったといわれる。辰巳中将の部下に服部氏がおり、ウイロビーの信任を得ている。

戦時中の服部大佐の経歴は、陸軍部内でも一頭地抜いている。昭和十五年に参謀本部作戰班長、昭和十六年七月に大本營陸軍部作戰課長となり、日米開戰からガダルカナル攻防作戰までを全般指導。

昭和十七年十二月にガ島作戰失敗の責任をとらされるかたちで 辻政信作戰班長とともに更迭されたが、辻大佐が以後 中央復帰が出来なかったのに比し、服部氏は東条首相・陸相秘書官兼副官の要職にとどまった。

まさに服部大佐は、辻大佐とともに日米開戦の作戦指導を行った中核人物。敗戦後、服部氏が第一級の戦犯として逮捕されても不思議ではない。第三師団長だった辰巳中将は歩兵六十五連隊長の服部大佐と同じ引揚船で中国から帰国している。まずに服部氏に戦犯容疑がかかるのは避けられないとみた辰巳氏は服部氏をかくまっている

やがて辰巳中将は在日米軍司令部に席を置いて、GHQ・G2(情報局)のウイロビー少将と親しくなる。GHQ側も服部氏らを戦犯として逮捕するよりは、有能な日本陸軍の高級軍人として、占領政策に協力させる方策に政策変更している。辰巳氏の働きかけがあったのではないか。

服部氏は第一復員局史実調査部長のポストを与えられ、辻氏も米軍の情報業務につくことを条件にGHQの庇護下に置かれた。これにより英軍の追及から免れることができた。ウイロビーの服部氏に対する信頼は絶大で、やがて情報網{服部機関」が作られ、旧軍の「服部グループ」が形成されている。

これらの動きは、米ソ冷戦構造が生まれ、朝鮮戦争が勃発するに及んで、GHQによる日本再軍備構想と並んで地下水脈で活発化されている。

自衛隊の前身となる警察予備隊の創設をめぐって、GHQ内部では、民政局(GS ホイットニー少将)と第2部(G2 ウィロビー少将)の対立があったのは、よく知られたところだが、ウィロビーはGHQの戦史編集局にいた服部氏を中心に約400名の幹部人選をしている。一方、ホイットニーは追放中の旧軍人の起用には消極的だった。

吉田内閣の内部からも、服部氏が予備隊幹部の人選にタッチするのは不適当という声があがった。「武官は服部が人選して新隊員を入隊させる」とのGHQ・G2の指示は、マッカーサーの裁定によって覆されている。吉田首相は宮内庁次長で軍幹部経験のない林敬三氏を警察予備隊の最高指揮官に据えた。

この決定にウィロビーや服部氏は不満を持ったに違いない。理解者だと思ってきた吉田首相に裏切られたという思いすら抱いた。吉田首相にしてみれば、GHQによる占領下にあったからウィロビーや旧軍人を近づけたに過ぎない。独立国になれば、違ったデッサンが必要になる。

ウィロビー周辺に集まった旧軍人グループは、辰巳氏や服部氏、辻氏だけでない。河辺虎四郎陸軍中将(敗戦当時参謀次長)、有末精三陸軍中将、中村勝平海軍少将らがGHQの戦史編集局の委嘱という形で参加した。いずれも旧軍主導による再軍備を目指している。これらの動きは、GHQやCIAの記録を保管する米国立公文書館の情報開示で少しづつ明らかにされている。

CIA資料によると、服部氏ら旧日本軍幹部の一部が1952年、国粋勢力に敵対的であった当時の吉田茂首相を暗殺しようとした際に、辻氏は時期を見誤らないよう諭し、計画の中止を説得したという・・・この情報は正しいものか、単なる噂の類か定かではない。

占領下ではGHQとCIAは、必ずしも良い関係になかった。とくにG2とCIAは犬猿の仲で、日本におけるCIAの活動は阻害されたという。またCIA報告がすべて正しいというものではない。情報開示で飛びつくと思わぬガセネタを掴まされることがある。

辻氏がいう吉田首相の暗殺計画は、こういう情勢下で一部の旧軍人グループの中で検討され、中心人物は服部氏だったのかもしれない。辻氏は吉田暗殺には反対したといったが、服部氏の名には触れなかった。この説を裏付ける日本側の証言は出ていない。

中心人物と目された服部氏は、昭和三十五年四月逝去、享年五十八歳であった。盟友を失った辻氏は翌年の昭和三十六年四月四日にエール・フランス機で羽田を飛び立った。ラオスの北東部に当たるジャール平原で殺害されたという噂を残して、消息は杳として分からない。(杜父魚ブログ 2007.04.11 Wednesday name : kajikablog)

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