昭和秘史 秩父宮と麻布三連隊(2)    田々宮英太郎


秩父宮については、石井秋穂元軍法会議判士の言辞が次のように引用されている。

 坂井は予審調書でも法廷でも、秩父宮様のことはひとことも話していません。ほかの誰ひとり発言していません。坂井が、中橋手記に書いてあるようなことを秩父宮様がいわれたというのは、笑止千万なことで、もしそういう会話が交わされた(それもとうてい信じられないが)とすれば、秩父宮様は「何か事があったら中央は一個師団を出して対抗措置をとるであろう」といったのだと思います。

これは作家・保坂正康氏が「秩父宮と二・二六事件」(「文藝春秋」昭和六十年三月特別号、のち単行本「秩父宮と昭和天皇」に収載)に引用されたものである。果たしてその通りなのだろうか。

秩父宮の動向をうかがう状況証拠ともいうべき一文を次に見よう。斉藤瀏元少将の著書「二・二六」に載ったものである。

十一年正月、彼(注・栗原康秀中尉)は、坂井直、清原康平、林八郎などを連れて遊びにきた。坂井は歩兵第三連隊付であった。そして

「私は嘗て、秩父宮殿下が隊付であらせられたので、ある時御殿に伺候した。遊びに来いと申されたことを思い出して伺ったのであるが、私としては、現下の内外情勢に対し私の愚見も聞いて頂き、また殿下のご意見も伺いたいと思ったからである。

それで忌憚なくわれわれ青年将校は、身を捨ててもこの現状を打破し、国内革新を行う決意を持っていることを申し上げた。

殿下は黙ってお聞きになって居られたが・・予はつとにそれを知って居る。・・何とかして現状を改めねばならぬと思う・・吾々同志は・・殿下は吾々同志と申されました」

と彼は感激に声をふるわせた。

「そして、実は私の決心を申し上げ、お叱りを受けたら、そして場合によっては、私は自決をする覚悟で、短刀を懐にして行きましたが・・」

と語り継ぐのであった。

この時の訪問者四人のうち、今も生きているのは清原康平元少尉(注・湯川と改姓)一人となった。湯川氏を私がインタビューしたのは、昭和六十二年初秋の頃である。

氏らが斉藤少将宅を訪ねたのは昭和十一年正月の六日か七日だったという。まず斉藤少将の記述はその通りだと肯定したうえで、上記石井元判士の「秩父宮様のことはひとことも話していません」との言辞には次のような答えが返ってきた。

「公判廷で私が目撃したことを話しますが、中橋中尉はたしかに秩父宮のことを述べようと口を開きました。しかし恐れ多いと言って、裁判長から怒鳴りつけられてしまったのです。

この状況はむろん安藤大尉も承知ですが、三連隊は殿下のことには触れずおこうという考え方でした。それだけに安藤大尉も坂井中尉も、秩父宮殿下には触れなかったのです。

石井氏が、ひとことも話していません、というのは正確でではなく、ひとことも話せなかったのが実状でした。

秩父宮の名が裁判記録になぜ載らなかったのか、その間の事情が分かろうというものである。古来、歴史とは、その全容が記録されるものとは限らない。時の権力者によって書かれない歴史があることを知らなければなるまい。秩父宮のばあいも書かれなかった歴史の好例といえよう。

湯川氏の言質はつづく。

昭和十年十二月、秋季演習のあとで安藤大尉と坂井中尉が御殿へ伺ったのを知っております。相沢事件の報告や第一師団の満州派遣の話などがあったのだろうと思いますが、仄聞したところでは、決起の際は予め自分に連絡せよと言われたとのことです。

越えて十一年一月四日には坂井中尉と一緒に私も赤坂表町の宮邸に伺いました。(注・殿下は翌五日の夜行列車で、妃殿下とともに弘前に帰任されている)

この頃になると安藤大尉には憲兵の尾行がついており、代わって私たちが新年のご挨拶を申し上げに行ったのです。背広姿の私たちは、玄関を入って右側の応接室で殿下にお目にかかりました。

麻布三連隊を疾くに離れられていても、秩父宮と青年将校とのつながりは切れていなかったことを裏づけるものだろう。

このように見てくると、さきに引用されている石井元判士の言辞など、まるでピントはずれに思えて来る。なお石井氏は判士ではあっても、将校被告の審理とは無関係だったことを指摘しておきたい。まして秩父宮と三連隊将校との、思想的交流などは知る由もなかった筈である。

秩父宮に関しては、三連隊将校との交流があったことを憚り嫌う評者が少なくない。しかし事実はどうだったのか。高橋太郎少尉のばあい、士官候補生として配属された麻布三連隊の第六中隊は、中隊長が秩父宮だった。両殿下おそろいの晩餐会にも呼ばれている。実弟の高橋治郎氏はこんな回想をのべている。

 食後の閑談に、「これからの軍人は、国際社会にどしどし進出しなければならない。ダンスぐらいできなければ、外国の将校と対等に話もできない」という話がでて、勢津妃殿下みずからがレッスンをされたが、妃殿下に手をとられた太郎は、緊張のあまりコチコチになって、妃殿下の靴を思い切り踏みつけてしまい、どう謝っていいか困ったという。

身ぶり手ぶりで語る興奮に上気した太郎の顔が、いまも目にうかぶ。(中略)

ただ、太郎のような平凡な人間を、想像もできない非合法な暴力行動をとるまでの高揚させたものは、彼の心底にひそむ秩父宮にたいする敬慕心であり、秩父宮の恩寵にこたえたい一心であったと、私には思えてならない。(高橋治郎「一青年将校」)

しかも高橋少尉の心服したのが、秩父宮の信頼厚い安藤大尉である。さきに記した坂井中尉もまた、安藤大尉どうよう秩父宮から信頼されていたという。二・二六事件と秩父宮との関係が風評にのぼってもおかしくない。

こうした意味からは、二・二六事件と秩父宮に何らの関係も無かったということにはならない。むしろ麻布三連隊には、秩父宮が大・小の影を落とししていると見るぼが常識だろう。(続く)

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