昭和秘史 秩父宮と麻布三連隊(3)    田々宮英太郎


そこで推測に浮かぶのが西田税(つとむ)という人物である。二・二六事件では北一輝とともに処刑されたが、秩父宮とは士官学校同期の三十四期生で知遇を得ている。あたかも大正十一年七月二十一日、卒業を目前に控え校庭兜松の付近で、数名の交友同志とともに秘密の会見をもったのである。

その模様の一端を西田は回想録に書いている。

 余は茲に於いて、同志団結の経過、猶在社との提携、日本国内外の形勢、亜細亜の現状等を諭述し、特に国内の思想、運動等を一々立証進言した。そして日本は速やかに改造を断行せずんば遠からず内崩すべきこと、日本は単に自己の安全の為めのみならず、実に全世界の奴隷民族のために・・亜細亜復興のために・・選ばれた戦士たることを力説した。(「戦雲をたなびく」)

秩父宮と西田税の思想交流は、既にして始まっていたのである。

越えて昭和六年十一月二十八日、陸軍大学校を卒業された秩父宮である。同三十日から麻布三連隊第六中隊長として勤務されている。

五・一五事件の勃発は昭和七年五月十五日だが、犬養毅首相が暗殺され、国家改造運動が表面化する第一撃だった。皮肉にも事件のとばっちりで、革新陣営の仲間から狙撃されたのが西田税である。風雲の急を告げる政治シグナルでもあった。

奇跡的に快癒した西田であるが、いち早く計画したのが、秩父宮を通じ天皇に建白書を奉呈することである。西田は社会的には市井の一浪人に過ぎない。当時にあっては危険きわまる計画であった。建白書の内容は

 (注・前文省略)政党政治家は国家百年の大計を捨てて、目前の党利党略に抗争を事とし、財界は皇恩を忘れて私利私欲に余念がありません。近年の経済不況によって、一億国民の大多数は塗炭の苦境に呻吟いたしております。洵に餓民天下に満つと申しても過言ではありません。

天下万民の仁父慈母に在します聖上陛下におかせられましては、速やかに昭和維新の大詔を煥発あらせられ、内は百僚有志の襟を正さしめ、財界の猛省を促し、上下一体となって国利民福の実をあげ、

外に向かっては国交の親善を増進して、大いに皇威を発揚し、以て帝国興隆の基を築かれんことを、草芥の微臣、閣下にひれ伏して、慎んで奏上仕ります。(須山幸雄「西田税 二・二六への軌跡」)

要は「昭和維新の大詔」を発して、国家改造に踏み出して欲しいという進言である。西田にとっては、北一輝の「国家改造案原理大綱」の内容が想定されていたのかも知れない。

ともあれ、この建白書は麻布三連隊の同志菅波三郎・安藤輝三両中尉の連携により、辛くも秩父宮に届けることに成功するのである。

ところで、この頃のこととして、天皇と秩父宮との間で激論あったことが「本庄日記」に遺されている。

 十月事件(注・昭和六年十月二十七日)の発生を見る等特に軍部青年将校の意気熱調を呈し来たれる折柄、ある日、秩父宮殿下参内、陛下にご対談遊ばされ、し切りに陛下の御親政の必要を説かれ、要すれば憲法の停止も亦やむを得ずと檄され、陛下との間に相当の激論あらせられし趣なるが、その後にて陛下は侍従長(注・鈴木貫太郎)に、祖宗の威徳を傷つくるが如きことは自分の到底同意し得ざる処、親政と云うも自分は憲法の命ずる処に拠り、現に大綱を把持して大政を総攬せり。

之れ以上何を為すべき。また憲法の停止の如きは明治大帝の創制せられたる処のものを破壊するものにして、断じて不可なりと信ずと漏らされたりと、誠に恐懼の次第なり。

内容から見て、建白書を天皇に伝達された頃の激論だったのではないかとも想像される。そこに見られるものは何か。秩父宮は革新をめざす進歩派に対し、天皇は何と伝統に安住する保守派であることか。両者思想のコントラストが、そこに凝縮された感がある。

それにしても天皇の固持する立憲君主論は建前であっても、実際には骨抜きにされたり歪曲されている。二・二六事件、日中戦争、太平洋戦争などの重大な局面にあたり、建前はいく度となく崩されている。

敗戦と亡国への過程には、そのことを証する挙措が少なくない。

宮廷記者河原敏明は述べている。

 天皇と秩父宮は気性や性格が対照的で、幼少のときから意見の相違や対立がままあり、あまり親しいとはいえなかった。

かつて兄宮を”鈍行馬車”と評したように、俊敏で豪気な秩父宮には、”ゆっくりのんびり”で、「食事に一時間もかかるような」兄宮を、内心軽侮する気持があったようだ。成績も、宮は陸士、陸大でトップクラスだった。(天皇裕仁の昭和史」)

思想的な兄弟の相克対立は、必ずしも偶発的なものだったとは言えないようである。その噴出とも見られるものが二・二六事件への対応処理であった。兄が弟をねじ伏せ構図が、その鎮圧と政治裁判に露呈されている。事件そのものへの処置はともかく、革新の思想まで否定弾圧される謂れはない。その点、秩父宮に憤懣が無かったわけではあるまい。

秩父宮の逝去は昭和二十八年一月四日で、五十歳と六ヶ月の生涯だった。特に昭和十五年以来の長期療養生活中、天皇はただの一回も見舞っていなかった。

この機微について河原敏明記者はのべている。

秩父宮の胸奧にひそかにひそむ憤懣がどれほどのものだったかが分かろうというものかである。

 葉山から藤沢までは、わずか十キロ余にすぎない。いわば目と鼻のところで、天皇はその間、海の微生物の採集や生態研究、ときには水泳や近くの野に植物観賞に出掛けたりした。

それでいて、七月十八日、宮家の見舞ったのは、皇后一人だけ、それも初めてで終わりだったというのは、一般庶民には考えられないことである。

実は秩父宮が頑なに、断りつづけていたのだという。

秩父宮と麻布三連隊将校との思想交流については、もう一つ重大な秘密があった。

「月刊ペン」(昭和四十七年三月号)に長谷川義紀氏の「北一輝と三井財閥」という評論がある。そこに載ったのが右翼浪人・原田政治の談話である。

 北について奧の座敷に入った。こちらは写真でみて知っている秩父宮がおられる。背広だった。西田もいる。北は秩父宮と向かいあわせにかけ、それから秩父宮のこちらに青年将校が・・私は西田は知っているが・・二・二六事件に関係した軍人は一人も会ったことはないし、知らないんです。

昭和九年か十年の桜の時機、当時大久保百人町にあった北一輝の家を訪ねた原田が偶然立合うことになった。

驚いた私は、原田氏を港区西麻布の自宅に訪ね、事実の有無を確かめたものである。秩父宮はまぎれもなく、北一輝宅を訪ねられていることを検証することができた。

秩父宮の革新思想への熱意は、北一輝訪問にまで成熟していたことを物語るものだろう。同座していた将校が安藤輝三大尉だったのは想像にかたくない。(続く)

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