古代朝鮮の統一王朝は新羅なのか   古沢襄


韓国の歴史学会は古代朝鮮の統一王朝は新羅だとしている。ところが高句麗の末裔をもって任じている北朝鮮は高句麗・高麗国が最初の統一王朝だと主張して譲らない。

北朝鮮の主張は金正日国防委員長が唱えたもので、「新羅は百済、高句麗を滅ぼした後もひとつの主権国家という主体性に欠けていた」という。

自力で三国の統一を望み、努力したのは高句麗で、その志は十世紀に建国した高麗に継承されたと「新羅の統一王朝」を否定している。一九六〇年十月以来、これが北朝鮮の歴史観となっている。

日本人にとっては、どっちでもいい朝鮮半島の初の統一王朝なのだが、韓国と北朝鮮にとっては、どちらも譲ることが出来ない歴史認識の論争となっている。

たしかに「どっちでもいい」朝鮮半島の初の統一王朝なのだが、いまの北朝鮮の中国に対する態度と、朴槿恵韓国大統領のそれには微妙な違いは、この歴史観に根ざしている。

あえて朴槿恵と言ったが、金大中、盧武鉉大統領たちは中国よりも北朝鮮に親近感を持っていた。むしろ北朝鮮に近い歴史観を持っていた。

この違いは、古代朝鮮の統一王朝論から説明すると、かなり面白い側面がみえてくる。つまりは朝鮮半島の独自の歴史論なのである。

とは言うものの古代朝鮮史はまだ未解明な点が多い。しかもその領域は朝鮮半島にとどまらず旧満州を含めた中国東北部の興亡史という観点から考察する必要がある。少なくとも高句麗については満州にかつて存在した夫余国の存在から説き起こす必要がある。

その夫余の呼称は五代十国時代以降の支那の史書『旧唐書』『新唐書』『旧五代史』『宋史』『三国史記』から使われている。

支那の魏王朝時代に東方諸民族でいちおう統一国家の形態をとっていたのは、夫余と高句麗だけで新羅など他の国は部落連合国家の段階にあった。

紀元前194頃  漢人が東方に進出して王国をつくる
紀元前57    部落連合国家・新羅建国
紀元前37    扶余から出た高句麗の始祖・朱蒙(東明王)が卒本で建国
紀元前18    百済の始祖・温祚が慰礼城で建国

扶余の建国神話は『後漢書東夷伝』『魏略』で紹介されている。

「昔、北夷の索離国があり、王は侍女が妊娠したので殺そうとした。侍女は「以前、空にあった鶏の卵のような霊気が私に降りてきて、身篭りました」と言い、王は騙された。

その後、彼女は男子を生んだ。王が命じて豚小屋の中に放置させたが、豚が息を吹き掛けたので死ななかった。次に馬小屋に移させると、馬もまた息を吹き掛けた。

それを王は神の仕業だと考え、母に引き取って養わせ、東明と名づけた。東明は長ずると、馬に乗り弓を射ること巧みで、凶暴だったため、王は東明が自分の国を奪うのを恐れ、再び殺そうとした。

東明は国を逃れ、南へ走り施掩水にやって来て、弓で川の水面を撃つと、魚や鼈が浮かび上がり、乗ることが出来た、そうして東明は夫余の地に至り、王となった。」・・・ここで言う東明は、高句麗の始祖・朱蒙のことである。

『魏書』や『三国史記』には、高句麗の始祖・朱蒙は夫余の出身であり、衆を率いて夫余から東南に向かって逃れ、建国した話が載っている。

魏の黄初元年(220年)、夫余が魏に朝貢した際、その君主は「夫余単于」と呼ばれた。西晋時代・武帝のところに夫余の使者が頻繁に朝貢していた。

この夫余を滅ぼしたのが高句麗。有名な『広開土王碑』には、410年に高句麗の広開土王が東夫余を討伐し、東夫余の5集団が来降したことが記されている。

高句麗の版図は、いまの中国東北部南部から朝鮮北中部に及ぶ大帝国。最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。隋、唐を始めとする中国からの侵攻を度々撃退している。最終的には5世紀に平壌を首都とした。

百済も夫余、高句麗と同じツングース系民族だが、支配層だけが夫余系であって被支配層は種々雑多な土民中心という説もあって定かでない。

『隋書』百済伝には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。(百済の先祖は高句麗国より出る。そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。)」とある。

これを歴史地図でみると満州の夫余の一族が南下して高句麗を造り、さらにその一族が南下して百済を建国した。

注目すべきは同族といえる夫余・高句麗・百済が朝鮮半島の北部の高句麗、西部の百済となったことである。これを現在の韓国地図でいえば、全羅北道、全羅南道に拠っているのが高句麗と百済。

一方、新羅は半島南東部の慶尚道に拠っている。高句麗、百済、新羅の三カ国が鼎立した七世紀の「三国時代」の歴史地図は、今日でも地域の民族感情を伝えている。

それだけ朝鮮民族の同族意識が強く、過去の流れを重視する。

具体的にいうと、北朝鮮の金日成の始祖は全羅北道。金大中は全羅道で百済の子孫なのである。一方、朴正煕は慶尚道の生まれで新羅の末裔。高句麗・百済と新羅はまったく異種の民族と思えるくらいだ。

新羅の成立は中国の史書によっても謎に包まれている。

秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人によって移民国家である辰韓が建国され、それが新羅になったというのが通説。

『魏志東夷伝』によると、東アジアからも『陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した』とある。だが中国から移民国家が新羅という確証はない。

ただ新羅は中国に対しては564年に北斉に朝貢して翌年に冊封を受け、その一方で568年に南朝の陳にも朝貢した。このように中国大陸の南北王朝との関係を深めたことは、半島北部の高句麗に大きな脅威を与えた。隋、唐に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。

高句麗・百済が総じて中国に抗したのに対して新羅は一貫して親中国。それは百済を滅ぼすに当たって唐の力を借りた。

490   魏、数十万騎で百済を攻める。
608   新羅 高句麗への出兵を隋に願う
643   新羅 唐に援兵願う
660   唐と新羅の連合軍が百済を攻めて滅ぼす
668   唐と新羅の連合軍が平壌城を攻め、高句麗滅亡す。
670   新羅 唐と戦う
918   王建即位す。国号を高麗
945   高麗 新羅を攻めて新羅滅亡

この間に高句麗と百済も支那王朝と和を結び、逆に新羅は支那王朝と戦ったことがあるが、概して新羅は支那王朝と結んで、高句麗や百済と戦っている。

朴正煕と朴槿恵が北朝鮮との対決に力を注ぎ、そのために中国に寄り添う姿勢をみせるのは新羅の伝統的な政略とみていい。

同じ共産主義国家でありながら、北朝鮮は中国が手を焼くくらい独自路線が垣間見える。これも高句麗の伝統的な政略の継承者とみればいい。

事実、北朝鮮は「高麗連邦」を目指して「新羅を否定」、朴槿恵を口汚く批判してとどまることを知らない。

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