奈良の「大型方墳」と古代蘇我氏の興亡     古澤襄


日本古代史で「蘇我氏」という大族の興亡は謎に包まれている。「日本書紀」を読んでも蘇我氏の出自は明らかでない。むしろ大化改新で誅殺された蘇我入鹿のように”悪役”の最たるものとして描かれている。

こんど奈良県明日香村の都塚古墳が、石を階段状に積み上げた、国内では類例のない大型方墳とみられることがわかり、これが多くの渡来人を配下に置き、天皇の外戚となって台頭した権力者・蘇我稲目ら一族の有力者の墓との見方が出ている。

蘇我稲目(そが の いなめ)・・・古墳時代の豪族で蘇我高麗の子である。蘇我馬子ら4男3女の父、娘3人を天皇に嫁がせている。

欽明天皇が即位すると引き続き大臣となり、娘の堅塩媛と小姉君を天皇の妃とした。堅塩媛は7男6女を産み、そのうち大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(推古天皇)が即位している。小姉君は4男1女を産み、そのうち泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位している。

欽明天皇は百済の聖王(聖明王)の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた(仏教公伝)。天皇は仏像を礼拝の可否を群臣に求めた。稲目は「西蕃諸国々はみなこれを礼拝しており、日本だけがこれに背くことができましょうか」(「西蕃諸國一皆禮之 豐秋日本豈獨背也」)と答えた。

これに対して大連の物部尾輿と連の中臣鎌子は「わが国の王は天地百八十神を祭っています。蕃神を礼拝すれば国神の怒りをまねくでしょう」(「我國家之王天下者 恆以天地社稷百八十神 春夏秋冬 祭拜為事 方今改拜蕃神 恐致國神之怒」)と反対した。(ウイキペデイア)

この仏像問題は蘇我氏と物部氏の権力闘争を招き、子の蘇我馬子、物部守屋の争いとなって続いている。

<仏教伝来の552年と538年の二説>

■五五二年・壬申説

日本書紀に「欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上した」と記されている。

■五三八年・戊午説

「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」には、欽明天皇の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。この二つは日本書紀の成立以前の書であるために”作為”が少ないとの説もある。

いずれも欽明天皇の在位中のことだが、天皇の外戚・蘇我氏についての記述が少ない。関裕二氏はヤマト建国の日本の大王家だった蘇我氏が、六四五年の「乙巳の変(大化の改新)」で蘇我入鹿が暗殺され、蘇我氏が歴史から抹殺された説をとっている。

たしかに蘇我氏が繰り広げた”専横”の数々は日本書紀で天皇をないがいしろにする悪行として描かれている。そして蘇我本宗家を滅ぼした中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足が英雄として今日まで伝わってきた。日本古代史の根本史料となる日本書紀では蘇我氏の出自まで湮滅している。日本書紀は中臣鎌足の子孫である藤原氏が全盛期を迎えた七二〇年に完成した。

古代史の蘇我氏をめぐる数々の謎は歴史家の手に委ねたい。私はこんどの奈良県明日香村の都塚古墳が国内では類例のない「大型方墳」であることに強い関心を持つ。

明日香村教育委員会と関西大学の調査チームによって、一辺が40メートルで石が積み上げられた階段上の巨大な方墳であることが2014年に確認された。考古学の白石太一郎氏は「こんな特殊な構造の方墳は国内で見たことがない。蘇我一族の有力者の墓だろう」と言い切っている。

天皇が大王(おおきみ)と呼ばれていた古墳時代には、その陵は「前方後円墳」だったから、「大型方墳」は天皇家に匹敵する、あるいは凌駕する古代大族の大型ピラミッド方墳なのだろう。

古墳調査によって謎の蘇我氏の調査と発見があるかもしれないから、体調が許せば秋には見学に行きたいと思っている。

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