都塚古墳はピラミッド形=大型方墳   古澤襄


■蘇我稲目の墓との説も―奈良

時事通信は「ピラミッドのような形の古墳は、現在の中朝国境地域に高句麗時代に築かれた”将軍塚”の形状によく似ている」・・・と指摘した。

関裕二氏は「蘇我氏は新羅王子・天日槍(あめのひぼこ)の末裔だった」という大胆な仮説に挑戦している。

天日槍・・・、『古事記』『日本書紀』に見える新羅の王子で『播磨国風土記』には神として登場している。「日本書紀」垂仁紀の記述では「昔有一人 乘艇而泊于但馬國 因問曰 汝何國人也 對曰 新羅王子 名曰 天日槍 則留于但馬 娶其國前津耳女 一云 前津見 一云 太耳 麻?能烏 生 但馬諸助 是清?之祖父也」とある。

天日槍は武内宿禰(たけうちのすくね)と同一人物であり、蘇我氏の祖という仮説は「日本書紀」からは導きだされないが、たしかに魅力有る見解である。

武内宿禰は景行天皇→成務天皇→仲哀天皇→応神天皇→仁徳天皇の五代の天皇に仕え、その子の中には蘇我石川宿禰の名もある。(古事記)だが生誕が景行天皇14年(84年)、死没が仁徳天皇55年(367年)といわれ、年齢については280歳・295歳・306歳・312歳・360歳などの諸説があるから、いかに長命の人物であっても、一人の人物とは考えられない。

このように武内宿禰については実在・非実在論があって、伝説上の人物ともいわれる。また蘇我氏の出自が朝鮮半島の新羅王子・武内宿禰という渡来人説も確証が得られていない。むしろ倭人が新羅王となり、日本に戻ってきたという説をとる学者もいる。

これは天照大神の弟・スサノオ(素盞鳴尊)が新羅に舞い降りたが、「この地には居たくない」といって出雲にやってきた説と似ている。「日本書紀」神代第八段一書第四に次の記述がある。

スサノオは高天原で乱暴を働いたので追放された。そこでスサノオは、子供の五十猛神を率いて、新羅国の曽戸茂梨(そしもり)という場所に舞い降りた。

古代出雲国と新羅との交流は一衣帯水の地理的な条件もあり、新羅が高句麗、百済を滅ぼして古代朝鮮半島の統一国家を形成した史実もある。

その意味で時事が報じた「高句麗時代に築かれた”将軍塚”の形状」に似た「都塚古墳はピラミッド形=大型方墳」は蘇我氏の出自もからんで非常に興味深い。

<奈良県明日香村の都塚古墳(6世紀後半)が、石を階段状に積み上げて墳丘を築いたピラミッド形の大型方墳であることが分かり、村教委と関西大考古学研究室が13日発表した。

現在の中国と北朝鮮の国境付近に残る古墳に形状が似ており、渡来人と関係の深い大和朝廷の実力者、蘇我稲目(? ~570年)が埋葬されたとする説もある。

村教委などによると、墳丘とその周囲を発掘調査したところ、階段状の遺構が3カ所で見つかった。これらの遺構は石室と方向を合わせ、いずれも数多くの石で造られていた。3カ所のうち1カ所は4段、より低い位置の2カ所で1段ずつが確認され、全体としては7、8段のピラミッド形をしていたと推定できるという。

墳丘は裾の部分が東西41メートル、南北42メートルの大規模なもので、高さも東側4.5メートル以上、西側7メートル以上あったとみられる。

ピラミッドのような形の古墳は、現在の中朝国境地域に高句麗時代に築かれた「将軍塚」の形状によく似ているといい、村教委などは都塚古墳もこの影響を受けて築かれた可能性があるとみている。(時事)> 

Leave a Reply

This blog is kept spam free by WP-SpamFree.