スサノオの伝承と梅原猛氏    古澤襄


昨夜は梅原猛氏の「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」を本棚から引っ張り出して再読している中に、スサノオの項に引き込まれ、いつしか夜が白々と明けてしまった。

以前に同書を読んだ時にはオオクニヌシが出雲王朝を繁栄させた大王の項に興味を惹かれた。そして傷ついた稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)に傷を癒す方法を教えた心優しきオオクニヌシが、武運つたなく天つ神に出雲の支配権を譲り、稲佐の海に身を隠した悲運の英雄に思いを致した。

しかし、奈良・都塚のピラミッドのような形の古墳が、現在の中朝国境地域に高句麗時代に築かれた”将軍塚”の形状によく似ており、天皇が大王(おおきみ)と呼ばれていた古墳時代には、その陵は「前方後円墳」だったから、「大型方墳」は天皇家に匹敵する、あるいは凌駕する古代大族・蘇我稲目(そが の いなめ)の墓という説が有力となっている。

蘇我氏は新羅王子・天日槍(あめのひぼこ)の末裔という説も出ているが、この説は古代出雲の伝説でアマテラスオオミカミ(天照大神)の弟・スサノオ(素盞鳴尊)が新羅に舞い降りたが、船で出雲にやってきた説と類似している。

遡ればスサノオが古代蘇我氏の祖という仮説も生まれる。梅原猛氏の書でスサノオがどう描かれているのか?、また蘇我氏の記述があるのか?という点に絞って、「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」を再読した。

梅原猛氏は出雲神話を語るには「日本書紀」よりも「古事記」によらねばならないと断っている。「日本書紀」にはオオクニヌシの稲羽の素兎について一行も書かれていない。

スサノオやオオクニヌシを語るには「古事記」や「播磨国風土記」、「出雲国風土記」を読まねばならない。さらには文献学的研究だけでは不十分でフイールド調査が必要だと梅原猛氏はいう。事実、一週間にわたって出雲地方の調査旅行を行っている。

さて出雲王朝の祖先神スサノオは、「古事記」によれば高天原から追われて出雲にやってきたことになっているが、「日本書紀」ではスサノオは直ちに出雲に降ったのではなく、その子のイタケルとともに新羅の「曽戸茂梨(そしもり)」に降ったという違いがある。

スサノオの時代には新羅の国は成立していないから、梅原猛氏は辰韓(しんかん)の国の豊かな町だったと比定している。つまりはスサノオの天降りについては、「古事記」ではなく「日本書紀」を用いている。「曽戸茂梨」については統一新羅時代の「蘇之保留(そしほる)」だという「釈日本紀」を用いた。

スサノオはこの地から船で出雲国に至り、目的地である「鳥上峯(とりかみたけ)」に来た。「鳥上峯」は現在の島根県仁多郡船通山。

出雲神話はフィクションと考えたのは戦後の歴史界を風靡した津田左右吉氏の影響がある。記紀が語る壮大な出雲王国があったのなら、その神話を裏づける考古学的な遺跡が存在しなければならない。しかし四〇年ほど前までは、出雲から遺跡が発見されていなかった。

しかし昭和59年(1984)に荒神谷遺跡から、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。さらに平成8年(1996)には加茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が出土した。伝説・神話の世界だった出雲神話が、考古学的に裏づけを得たのである。銅剣、銅鐸、銅矛が埋納されたのは紀元一世紀頃といわれる。

梅原猛氏はとくに銅鐸に注目している。朝鮮の馬の首に鈴をつける貴族の風習が、そのまま日本に移入され銅鐸という宝器となった。銅鐸を宝器としたのは、朝鮮から来た貴族か、貴族に憧れを持つ人物、梅原猛氏はスサノオを想起している。

もう一つは、出雲には規模は別として「方墳」が多い。天皇が大王(おおきみ)と呼ばれていた古墳時代には、その陵は「前方後円墳」だったから、「方墳」は出雲に別の文化圏、別の権力構造があったことになる。

古代大族・蘇我稲目の墓といわれる奈良・都塚のピラミッドのような形の「方墳」の発見と考え合わせると出雲権力圏がヤマトに及んでいた時期があったと思わせる。

出雲国に支配権を確立したスサノオにはヤマタノオロチを退治した伝説がある。八つの頭を持った大蛇などは神世の昔でもある筈がない。だが「古事記」も「日本書紀」もヤマタノオロチ伝説を伝えている。

八つの頭と八つの尾を持ったヤマタノオロチを退治したスサノオの伝説は、スサノオを祖神とする出雲権力が周辺に支配を広げた歴史を物語っている。「古事記」には「高志の八俣のおろち」と書かれている。「高志」は「越」であり、明らかに越前、越中、越後を指している。「出雲風土記」には「越の八口」という言葉が出てくる。越の豪族たちを平らげオオクニヌシは越のヌナカワヒメを娶って、ヒスイを産出した越の国に支配権を広げている。

オオクニヌシは越の国の支配した後に南進してヤマトの征服を目指した。「古事記」には出雲からヤマトに旅発つオオクニヌシとスセリヒメの間に交わされた歌が載っている。

梅原猛氏はスサノオやオオクニヌシに多くのページを割いているが、スサノオを祖神とする蘇我氏については記述が少ない。

「律令制の完成は蘇我氏に代わって権力を握った天智天皇、藤原鎌足の政権以降に受け継がれる」
「蘇我氏の寺は法興寺で天武天皇の寺と言っていい」
「藤原鎌足は稀代の革命家であり天智天皇に近づいて大胆で精密なプログラムを立て、それを実行して蘇我氏を滅ぼした」

といった程度である。関裕二氏はヤマト建国後、蘇我氏は没落したが、六世紀から七世紀にかけて不死鳥のように蘇っている。この時に「曾我」や「宋我」だった姓を、我蘇れりの「蘇我」の二文字に変えたとしているのだが・・・。

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