第26代継体天皇とそれを支えた蘇我氏の台頭    古澤襄


北陸には五年間いたので一番印象に残っているのは、福井市の足羽山公園にある継体天皇の石像だった。日本の古代国家は畿内つまり近畿地方で天皇を頂点とする朝廷によって成立している。

だが第26代継体天皇は「古事記」では近江の出身、「日本書紀」では近江で生まれたのちに越前で育ったという。ヤマト政権の歴代天皇は大和か山城、河内など畿内の出身である。言うなら中央から離れた地方から台頭した初の天皇ともいえる。

そんなことから戦後の歴史学界では、現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が生まれている。

この継体天皇と、六世紀から七世紀にかけて不死鳥ののごとく蘇った蘇我氏が時代的に重なりをみせている。これを指摘したのは日本古代史の研究家・水谷千秋氏だった。

水谷千秋氏は平成13年に「謎の大王 継体天皇」(文春新書)の中で蘇我氏と継体天皇について詳述している。その所論は後記するが、まずは継体天皇が誕生するいきさつを見てみたい。

「日本書紀」では男大迹王(をほどのおおきみ)、「古事記」では袁本杼命(をほどのみこと)と記された継体天皇は、出自についても「古事記」は応神天皇五世孫、「日本書紀」ではこれに加えて母方が垂仁天皇から数えて八代目に当たると記されている。

いずれもヤマト政権とは疎遠な傍系王族といわねばならない。足羽山公園にある継体天皇の石像は大正年間に建てられた。

継体は57歳の時に中央豪族によって大王に擁立され、越前を出て河内国の樟葉宮(くすばのみや)で即位した。ヤマト政権で武烈天皇に後継者がなかったので、五〇七年に継体に白羽の矢が立った。享年については「日本書紀」は82歳、「古事記」は42歳。

ウイキペデイアによると皇后は雄略天皇の孫娘で、仁賢天皇の皇女であり、武烈天皇の妹(姉との説もある)の手白香皇女である。継体天皇は大和に入る以前に現地で複数の妃を持ち沢山の子もいたが、即位後には先代天皇の妹を正式の皇后をとして迎え入れた。

これは政略結婚であり、継体天皇は先代天皇の妹で正当な血筋を持つ直系の手白香皇女を皇后にする事により、武烈天皇系との融和を図るとともに、一種の入り婿という形で血統の正当性を誇示したと考えられている。

継体天皇は他に沢山の子がいたにもかかわらず、嫡子は手白香皇女との間の皇子である天国排開広庭尊(欽明天皇)であった。欽明天皇もまた手白香皇女の姉妹を母に持つ、宣化天皇皇女の石姫皇女を皇后に迎え敏達天皇をもうけた。

ヤマト王権の傍系の継体の血を、皇后の直系の血統により補強したと考えられている。かくして継体天皇と手白香皇女の皇子である欽明天皇の血筋が、長く現在まで続く事になる。

■継体天皇の大和入りに協力した蘇我氏

水谷千秋氏は古王朝(崇神、垂仁、景行、成務、仲哀=四世紀初めから四世紀末・大和)、中王朝(応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、顕宗、仁賢、武烈=五世紀・河内)の区分を紹介している。これに継体を祖とする六世紀以降現代に至る新王朝が続いているという日本古代王朝史論である。

三王朝交替説については、いまなお一定の評価を得ている。古王朝の仲哀天皇と中王朝の応神天皇の間には、系譜上は父子なのだが、王朝交替の断絶が認められる。

しかし中王朝の武烈天皇から新王朝の継体天皇になるに際しては、自ら応神天皇五世孫と称し、先代武烈天皇の妹・手白香皇女を正式の皇后をとして迎え、王朝の継続性に心を配っている。継体の擁立は大伴金村大連によって行われている。

だが王朝の交替を快く思わない大和や河内の豪族もあったという。河内国の樟葉宮で即位した継体天皇だが、大和入りが遅れている。水谷千秋氏は仁徳系王統の葛城氏の抵抗があったと推定した。

葛城氏は五世紀の大和地方で勢力を振るっていたに有力な古代在地豪族で武内宿禰(たけうちのすくね)の後裔とされる。この葛城氏の同族に蘇我氏がいた。

葛城氏は六世紀前半ごろに衰退したが、代わって台頭したのが蘇我氏である。「宣化紀」元年条に「蘇我稲目が大臣に就任した」という記述が出てくる。葛城氏が継体に距離を置いていたとみられるのに対して、蘇我氏は一転して継体の大和入りに協力したのであろう。有力豪族の蘇我氏が親継体になったことによって新王朝のヤマト政権の基礎が固まった。

以後、蘇我氏はめざましい発展をとげ、不死鳥のように蘇った。しかし継体天皇の死後、後継をめぐって蘇我氏が推す欽明天皇と大伴氏や物部氏が推した安閑天皇、宣化天皇の対立が生じた。

■蘇我氏と物部氏の対立抗争(ウイキペデイア)

宣化天皇の崩御後、欽明天皇の時代になると物部尾輿(生没年不詳)が大連になった。欽明天皇の時代百済から仏像が贈られた仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争った。

稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋に代替わりした。大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇は排仏派でありこれを許可したが、このころから疫病が流行しだした。

大連・物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。

守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。

こうした物部氏の排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は次代の用明天皇に持ち越された。

用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派であった。しかし依然として疫病の流行は続き、即位してわずか2年後の587年5月21日(用明天皇2年4月9日)に用明天皇は崩御した(死因は天然痘とされる)。

守屋は次期天皇として穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、同年6月馬子は炊屋姫(用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に推古天皇となる)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。

同年7月、炊屋姫の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋に攻め込んだ。当初、守屋は有利であったが守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した(丁未の乱)。同年9月9日に蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位し、以降物部氏は没落する。

■蘇我氏を滅ぼし、藤原氏繁栄の礎を築いた中臣鎌足(なかとみの かまたり)

中臣鎌足は初期の頃は「中臣鎌子」を名乗っていたが、物部尾輿と共に排仏を行った中臣鎌子とは別人である。密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近した。

645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変=大化の改新)。大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。

天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜った翌日に逝去したという。

藤原鎌足の次男に藤原不比等(ふじわら の ふひと)がいるが、不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められ、藤原氏の黄金時代が作り上げられたという。(ウイキペデイア)

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