戦後出版界の重鎮だった下中弥三郎氏と会ったのは昭和二十六年頃であった。末次信成内相の秘書官だった鈴木憲一氏に連れられて、東京・八重洲口にあった平凡社に行った。当時の私は早稲田大学に入ったものの授業料を滞納して除籍寸前という状態にあった。
父親を戦争で失い母子二人が混乱期の日本に放り出されたのだから、食うことだけでも精一杯。進学校の都立戸山高校も、ヨット鉛筆の専務の家に住み込みの家庭教師で、食いつなぎながら卒業したのだが、朝五時に起きて屋敷の雨戸を全部開け、広い庭を掃除して台所で飯をかき込み、学校に駆けつける毎日であった。
下校すると鉛筆の廃材で風呂焚き、それが終わると女の子と男の子の二人の勉強をみてやって、また台所で若い女中さんと二人でボソボソと暗い電灯の下で飯を食った。それでも結構楽しい日々だった。夕食後、自分の勉強をするのだが、すぐ眠くなる。
卒業して東大を受験したが受かる筈がない。第二志望の早稲田大学にはやっと入ったが入学金は母の弟が出してくれたものの授業料は自分で稼がねばならない。思いあまって旧知の鈴木氏に相談したら平凡社に連れていかれた。
GHQから公職追放令を受けた下中氏が追放解除となった時期であった。海軍右派だった末次大将と世界連邦を唱えた下中氏の関係が分からないまま平凡社の歴史大事典編集部にアルバイトとして採用して貰った。それを機会にヨット鉛筆の家庭教師はやめた。
平凡社に入ると下中氏は雲の上の人であった。そこで鈴木氏から戦前の下中氏のことを聞くことになる。仲間の学生に出版界に詳しい者がいて「下中弥三郎は戦前右翼のファシストだよ」という。
アルバイト代が高額だったので、そんな詮索はどうでもいいという気がする一方で、スケールが大きい下中氏の魅力に取り憑かれる日々だったので、思い切って鈴木氏に聞くことにした。「とにかく早稲田を卒業すれば、平凡社の正社員になれるのだから・・・」と鈴木氏は言いながら、戦前の下中氏のことを話してくれた。
大正十二年に下中氏は「萬人労働の教育」という著書を出している。世界連邦運動の下地は戦前からあった。昭和十五年には「大西郷正傅」の著書もある。大西郷の思想系譜の中に世界連邦思想があるというュニークな発想をした最初の人であった。
戦争中は山梨県・岩間村に疎開し終戦を迎えている。そこで三つの提言をしている。一つは郷村自治、一つは人種混合、もう一つは世界連邦。これが戦後日本の三つ柱だと言った。あの混乱期に民間でこれだけの先見性ある発言をしている。
郷村自治は地方分権、人種混合は異民族の受け入れ・同化、世界連邦は国連中心主義と置き換えれば、今の日本の目指す指針と変わらない。GHQによる占領政治が始まろうかという時期に、一介の出版人がこの提言をして、自ら世界連邦建設同盟の理事長となり、教育の基本となる百科事典の出版事業に精魂を傾けている。
ここに至るまでに下中氏は幾山河を超えてきている。日本の右翼運動は観念右翼と組織右翼の大きな流れがある。言い方を変えれば、古来の日本主義と近代的な国家社会主義の対立の狭間で揺れてきた。
大正七年に発足した「老壮会」は、古き国粋主義運動から新しい近代的な国民主義を目指したファシスト運動といって良いだろう。老壮会から多くのナショナリスト団体が生まれた。その左派グループに堺利彦、嶋中雄三、下中弥三郎らの名がある。右派グループでは北一輝、大川周明らがあって、中間派として中野正剛らがいた。
三年ほどで老壮会は消えたが、これを母体にして北一輝の猶存社が生まれ、大川周明、安岡正篤、西田税らが加わっている。北一輝と大川周明は後に対立して、大川周明の神武会が結成された。組織右翼が離合集散を繰り返し、過激化する中で左派グループは沈黙せざる得なかったが、下中氏は「新日本国民同盟」を結成して大衆的基盤を固めようとしていた。
下中氏は昭和七年に「経済問題研究会」を立ちあげ、赤松克麿の「国家社会党準備会」と合流して「国民日本党」を結成式を挙げるまでになったが、赤松派の国家社会主義と合わず、下中派は脱退している。下中氏の党誓には「建国の本義に基づき新日本の建設を期す」とあるが、搾取なき新社会の建設を目指しているので、一部から”アカ”呼ばわりされた。脱退した下中氏は「新日本国民同盟」を創立。しかし右翼運動の大きな流れから外れてきたことは否めない。
下中弥三郎の軌跡を振り返ると戦前の苦悩の時代抜きには語れない。その幾山河を超えてきたから、戦後間もなく疎開先で郷村自治、人種混合、世界連邦という三つのビジョンを語れたのであろう。世界連邦にしてもアジアなくして世界連邦なしと言い切っている。
終わりになるが、ケネデイ米大統領に出した書簡とその返書のエピソードを伝えたい。この後、下中氏は、この世を去った。八十三年の生涯であった。
ケネディは大統領就任演説で「人類が戦争を滅ぼさなければ戦争が人類を滅ぽすであろう。力の抗争に終止符を打とう、世界に新しい法の秩序を打ち立てようではないか」といった。これに賛同した下中氏は六つの提言をケネディに送っている。
①アイゼンハワー前大統額のソ連封じ込め政策は誤りである。百八十度転換して、封じ込め政策をやめなさい②集団安全保障体制というものは平和につながらない。だから集団安全保障制度を洗い直せ③米ソは世界平和の責任者である。人類を皆殺しにするような兵器を両方とも山積みにしているが、それをどうやったら廃絶することができるか、余人をまじえずソ連首相とさしで真剣に話しなさい
④発展途上国への援助は、アメリカもソ連もひもつきでやっている。自分の言うことを聞く国だけに援助しておるが、それはやめなさい。国連に一つの機関を設けて、そこへプールして、そこから必要に応じて援助するプール方式をとりなさい⑤国連の平和維持機構というものをもっと強固にする必要がある。そのための国連憲章の改正を行ないなさい⑥中共を速やかに国連に加盟させなさい・・・という英文の手紙であった。
折り返し「大変いい忠告をいただいて感謝申しあげる。私の在任四年問を通じて先生の意に沿うように努力したいと思う」というジョン・ケネディのサインをした返書が届いた。スケールの大きい人物であった。