陸羽大地震と為田文太郎     古澤襄


明治29年(1896)8月31日、東北の真昼山地を震源とする大地震が発生した。陸羽大地震である。

真昼山地の地下4キロを震源とするこの地震で岩手県側に川舟断層、秋田県側に千屋断層の二大断層が出現し、秋田県側の死傷者二〇五人、重軽傷者七三六人、家屋の全壊消失四三〇〇件。一方、震源地に近い岩手県の西和賀地域は家屋の全壊が三一〇件と比較的被害が少なかった。

岩手県の西和賀地域の被害状況については、西和賀町長だった高橋繁氏が「沢内年代記」の研究で詳しく発表している。

■明治二十九年 丙申(ヒノエサル・・・1896年の記録)【巣郷本の記録】

新歴八月三十一日朝刻より数回の地震あり。午後五時二十分強震、三十分には至り大激震となり、瞬間に家屋転覆し、山崩れ、田畑の被害甚大。

近隣被害は次の通り。この年の作柄は下の下作。田畑合わせて五歩の出来具合であった。
    野々宿―半壊三戸―余は大破損
    巣 郷―半壊一戸―余は大破損   
    中 村―半壊三戸―余は大破損

殊に越中畑の被害はひどく全壊五戸、焼失一戸、半壊四戸、他の二戸はようやく住居の形を残したのみであった。白木野は全壊一戸、半壊三戸、残りは大破損。細内は全壊二戸、余は大破損。桂子沢、花山は大破損のみ。柳沢は全壊三戸、余は大破損。

物置、台所の損壊はひどく筆紙に尽くしがたいものであった。その夜川尻警察署長及川、小使いと共に出張してくる。九月一日震動昼夜に三十回以上もあり危険であった。九月二日なお震動治まらず二十回以上。九月三日震動前日に同じ。郡衛役場、警察署、日本赤十字岩手支部より医員出張。九月四日震動十回余り。九月五日破損取り調べとして書記官常置員2名、警察部より屋形署長郡衛等より出張。

九月六日震動数回する。九月七日被害者のうち食糧不足の者救助する。取り調べのため郡衛より平沢氏出張す。震動数回あり。九月八日震害視察として、内務書記官太田峯三郎随行一名、郡長太田時敬随行一名出張された。黒沢尻巡査佐々木氏巡回する。なお震動あり。九月九日なお震動。九月十日なお震動。 

九月十一日常置員高橋嘉太郎、鈴木文三郎二氏被害視察として出張。震動あり。九月十二日尚々震動。九月十三日尚々震動。九月十四日真宗大谷派本願寺慰問使細川義安氏来訪せり。外に太田伝了とも。九月十五日警察保安課長小野崎勇平、黒沢尻巡査高橋寿左エ門出張せり。震動あり。

九月十六日より九月十八日まで震動。九月十九日岩手農事講習所教師沖千代氏被害地へ出張。九月二十日より九月三十日まで尚震動す。

【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・陸羽大地震(真昼大地震)
・三陸津波
・大雨大洪水被害甚大

〔沢内通り〕・中山街道(花巻―川舟―下前―秋田県六郷)開通する。
・陸羽大地震(真昼大地震・震源は真昼山直下・震度6から7といわれる)により西和賀一帯大被害あり、川舟断層(4㎞)できる。

・湯本温泉の湯一時止まり、湯治客続々引き上げる。
・草井沢、笹原沢、篭倉、鷲之巣鉱山創業。
・翁沢鉱山を三菱合資会社買収する。
・地震災害復旧工事予算2965円9銭9厘(沢内村)
・川舟尋常小学校火災
・新町尋常高等小学校高等科生より授業料(月15銭)の規定つくる。

■曾祖父・為田文太郎と陸羽大地震

昭和57年(1982)、父の代まで三百年の歴史を刻んだ西和賀・沢内村を初めて訪れた。菩提寺の玉泉寺に行ったら、泉全英和尚が寺宝「釈迦三尊・十六羅漢(雪江筆)」の大掛軸を見せてくれた。

「この大掛軸はあなたの曾祖父・為田文太郎初代村長が寄進してくれたものです」と告げて、陸羽大地震にまつわる話を教えてくれた。

東京で生まれ東京で育った私だから百年以上の昔の陸羽大地震といわれてもピンとこない。しかし曾祖父が寄進したという雪江の大掛軸には興味を持った。

明治22年(1889)に初めて町村制度が実施され、この沢内村の初代村長に為田文太郎氏が選ばれた。七年後に陸羽大地震が起こっている。文太郎は明治26年(1893)に村長の座を小田嶋喜六氏に譲り、東京四谷に居を移していた。

再び沢内年代記・巣郷本を見てみる。

翌年の明治27年(1894 甲午キノエウマ)に日清戦争が勃発して、この東北の寒村から三十人余りの壮丁が出征していた。沢内村の人口平民4148人、士族6人、戸数556戸、出生77人、死亡79人の記録が残っている。(明治28年事務報告の控、郡長宛)

そんな時代背景の中で明治29年の陸羽大地震が発生したのだが、文太郎の菩提寺・玉泉寺も庫裡が傾く被害を受けてしまった。すでに東京に転居していた文太郎は、即座に玉泉寺の本堂などの大改築を約束した。自ら主だった檀家に働きかけ、資金集めに奔走している。

しかし思ったように資金が集まらない。明治39年(1906)に文太郎は玉泉寺に一通の書状を送って、積年の約束が果たせないでいることを詫びるとともに雪江の筆になる三尊十六羅漢の「彩色仏画横幅」の由来を書き記して、この大掛軸を菩提寺に寄進すると伝えてきた。

全英和尚の話を聞いて、曾祖父の義理堅さに心を打たれた。高価な大掛軸を売って本堂などの改築費用に充てずに、この掛軸を寺宝として保存する菩提寺側も立派である。陸羽大地震で玉泉寺の本堂や庫裏は損壊、墓の石塔がことごとく倒れたという。それを時間をかけて檀家たちが改修につとめて、いまでは陸羽大地震の傷跡も残っていない。

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