断層型「真昼大地震」の夢をみる    古澤襄


あと10日でお正月、新しい年を迎える。夜中に目が覚めた。災害列島・日本で一番怖いのは津波被害である。だが夢の中で出てきたのは大地震。それも断層型の「真昼大地震」。

断層型の大地震については、過去資料をもとに日本列島で関東から九州へ連なる最大の大断層系・中央構造線やアルプス山系に沿って日本中央部を縦断する糸魚川静岡構造線のことを度々書いてきた。

だが夢に出てくるのはいつも陸羽大地震(真昼大地震)。中央構造線や糸魚川静岡構造線とは関係ない東北の大地震が何故出てくるのだろう。この大地震は明治29年に発生だから私が体験する筈はない。しかし地震被害の概要は過去資料によって私の脳裏に深く刻み込まれている。

それというのも、わが先祖たちが三百年の歴史を刻む岩手県沢内村の真昼山地を震源とする断層型地震が陸羽大地震。震源の
岩手県側に川舟断層、秋田県側に千屋断層の二大断層が出現した。

さらに震源でない秋田県側の死傷者二〇五人、重軽傷者七三六人、家屋の全壊消失四三〇〇件の大被害がでたのに、震源地に近い岩手県側の西和賀地域は家屋の全壊が三一〇件と比較的被害が少なかった特徴がある。

この原因は岩手県側の地盤が堅牢で、秋田県側の地盤が軟弱だったと調査結果が出ている。それでも震源地の沢内村民たちは初めて体験した大地震だったので肝をつぶして右往左往した。

「沢内年代記」の巣郷本にその記録が残っている。

■明治二十九年 丙申(ヒノエサル・・・1896年の記録)【巣郷本の記録】

<新歴八月三十一日朝刻より数回の地震あり。午後五時二十分強震、三十分には至り大激震となり、瞬間に家屋転覆し、山崩れ、田畑の被害甚大。

近隣被害は次の通り。この年の作柄は下の下作。田畑合わせて五歩の出来具合であった。
    野々宿―半壊三戸―余は大破損
    巣 郷―半壊一戸―余は大破損   
    中 村―半壊三戸―余は大破損

殊に越中畑の被害はひどく全壊五戸、焼失一戸、半壊四戸、他の二戸はようやく住居の形を残したのみであった。白木野は全壊一戸、半壊三戸、残りは大破損。細内は全壊二戸、余は大破損。桂子沢、花山は大破損のみ。柳沢は全壊三戸、余は大破損。

物置、台所の損壊はひどく筆紙に尽くしがたいものであった。

その夜川尻警察署長及川、小使いと共に出張してくる。九月一日震動昼夜に三十回以上もあり危険であった。

九月二日なお震動治まらず二十回以上。九月三日震動前日に同じ。郡衛役場、警察署、日本赤十字岩手支部より医員出張。九月四日震動十回余り。九月五日破損取り調べとして書記官常置員2名、警察部より屋形署長郡衛等より出張。

九月六日震動数回する。九月七日被害者のうち食糧不足の者救助する。取り調べのため郡衛より平沢氏出張す。震動数回あり。九月八日震害視察として、内務書記官太田峯三郎随行一名、郡長太田時敬随行一名出張された。黒沢尻巡査佐々木氏巡回する。なお震動あり。九月九日なお震動。九月十日なお震動。 

九月十一日常置員高橋嘉太郎、鈴木文三郎二氏被害視察として出張。震動あり。九月十二日尚々震動。九月十三日尚々震動。九月十四日真宗大谷派本願寺慰問使細川義安氏来訪せり。外に太田伝了とも。九月十五日警察保安課長小野崎勇平、黒沢尻巡査高橋寿左エ門出張せり。震動あり。

九月十六日より九月十八日まで震動。九月十九日岩手農事講習所教師沖千代氏被害地へ出張。九月二十日より九月三十日まで尚震動す。>

震度6から7といわれる陸羽大地震だったから、菩提寺の玉泉寺の庫裡が傾く被害を受け、墓の石塔がことごとく倒れた。当時の沢内村の人口は平民・4148人、士族・6人、戸数556戸。(明治28年事務報告の控、郡長宛)

私の祖母・トヨはこの年に士族・為田文太郎の次女として生まれた。もちろん祖母には陸羽大地震の記憶はない。だが私の夢の中に真昼大地震が屡々出てくるのは、わが一族の体験がDNAとして私の身体に刻み込まれているせいなのだろう。

ところで震源地の真昼山地は、平安中期に陸奥国の豪族安部氏がおこした反乱で、源頼義の追討軍が安倍貞任を追って北上した道筋にある。(沢内伝承)

安部一族が逃がれる途中、昼飯を食べた場所を「真昼野」という。ここには、「真昼神社」が祀られている。

安倍一族が大行列を形作り北へ進む。和賀川を渡って間もなく、貞任の妻が子供に乳を飲ませた所が「乳野」と言ったと伝えられている。

安倍貞任が沢内通を北上した逃避行は史実かどうか分からない。山岳地帯に逃げ込んだ安倍一族の誘いに朝廷軍が乗らなかった説もある。だが「真昼野」「乳野」が地名として残り、野史である沢内伝承に残っているのも事実である。

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