西郷隆盛と藤田東湖    古澤襄


「先輩としては藤田東湖、同輩としては橋本左内、ともにわしの最も尊敬した人である」・・西郷隆盛が遺した言葉である。西郷は安政元年(1854)4月10日に江戸・小石川の水戸藩邸に東湖を訪れている。

東湖と初めて対面した西郷は、東湖の学識、胆力、そして人柄や態度に大きな感銘を受けた。この印象を実母の実家である椎原家に書状で次の様に伝えている。

「東湖先生は至極丁寧なる事にて、心中に一点の雲霞なく、ただ清浄な心に相成り、帰路を忘れ候」。

東湖は西郷に対して「もう少し本をお読みなさい」と諭し、西郷は「今後、先生を師と仰ぎたい」と師に仕える事を誓っている。

ほどなくして西郷は水戸に戻っていた東湖を訪ねているが、言葉を慎み、ひたすら東湖の話を傾聴している。東湖もまた西郷が大人物であることを見抜き、「自分の志を継ぐに足る人物は西郷しかいない」と断言していた。

東湖は安政2年10月2日(1855)の安政の大地震に遭い、母親・梅子を守って、落下してきた梁を自らの肩で受け止め圧死している。享年四十九歳(満年齢)

この報を受けた西郷は悲しみに打ちひしがれ、鹿児島の樺山三円に次の様な書状を送っている。

「去る二日の大地震は誠に天下の大変で、水戸の両田(この地震で、戸田蓬軒も圧死した)も揺り打ち(地震)に逢われた。何と申してよいか言葉もありません。とんとこれきり、何も話す気になれません。私の気持ちを察して下さい」

すでに薩摩藩では西郷隆盛や大久保利通が東湖を敬慕して近づき、薩摩藩邸に東湖を招いて、糾合方(時事研究会)が持たれ、樺山三円、有村俊斉、大山綱良、有村雄助、柴山愛二郎、伊地知龍右衛門らは東湖の教えを受けていたから、東湖の不慮の死は衝撃的だった。

独断と偏見の批判は承知で言わせて貰えば東湖の不慮の死がなかったら、勤王の志士に与えた東湖の影響力の強さからみれば、薩長主体の明治政府の様相も違っただろうし、西郷の城山における憤死も防げたと思う。

長州藩の吉田松陰も東湖を敬慕した一人であった。松下村塾では東湖の「回天詩史」「常陸帯」を教科書として子弟に教えている。蛤御門の戦で憤死した久坂玄瑞は東湖の「正気歌」「弘道館記述義」「常陸帯」を読み、夢の中で東湖と会ったというくらい思慕を隠さなかった。伊藤博文、山県有朋らも東湖の影響を受けている。

越前藩の橋本左内も東湖を訪れている。東湖は左内の英才ぶりを高く評価し、越前侯・松平春嶽の意をうけた重臣が越前藩に人材がいないと言ってきた時に「それは燈台の下暗しだ。貴藩には橋本左内という立派な人物がいる」と指摘している。それが松平春嶽によって橋本左内を登用するきっかけとなった。東湖の人をみる目の優れていたことを示すエピソードといえよう。

土佐の山内容堂にも大きな影響を与えている。明治の夜明け前に東湖が勤王の志士たちに与えた影響によって、水戸が思想的なメッカとなった。

徳川御三家のひとつ水戸藩から東湖という思想家が生まれ、勤王の志士たちに大きな影響を与えたのは、東湖の偉大さもあるが、ヨーロッパ列強のアジア侵略という時代背景を抜きにして語ることは出来ない。

東湖は早くから鎖国政策をとった徳川幕府の260年に及ぶ一国平和主義が破綻すると見抜き、幕府に代わる統一国家・・それは天皇を中心とした新しい政治的に安定した国造りを唱えた。単なる勤王論ではない。

すでに徳川幕府は内政面では財政難をきたし、対外政策では無策なまま為す術がなかった。宗教も教育も学問も、すべて行き詰まった状態だったと言っていい。

1840年のアヘン戦争で清国は近代兵器で武装したイギリスの前に屈服する。この情報は清国の商人から日本にもたらされ、当時の知識人・下級武士階級に衝撃を与えている。十三年後には浦賀にアメリカのペリーが黒船を率いて来航し、同じ年にロシアのプッチャーチンが長崎に来航して、日本が鎖国を解き、開国するよう求めた。

さらには長州藩は下関海峡を示威航海したフランス、オランダの軍艦を砲撃し、薩摩藩は鹿児島湾に入ったイギリス艦隊と砲火を交えている。

1854年には、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの連合艦隊が下関を砲撃し、上陸した陸戦隊によって長州藩の砲台が占領された。蟷螂の斧ともいえる”攘夷運動(拝外運動)”が起こった。

永年にわたる一国平和主義の下で制度疲労を起こした徳川幕府では、目前の危機を乗り切る方策が生まれない。この情勢下で長州藩から急進的な倒幕論が生まれ、蛤御門の変で幕軍と戦って敗北を喫している。

列強の目が清国から日本に向けられていた危機的状況の下で、日本は内戦一歩前のところにきていた。

徳川幕府と薩長が内戦状態になれば、ヨーロッパ列強の侵略を招くという危機感を東湖は抱いた。そこで東湖は外敵に備える海防思想とともに”忠孝一致”の新思想を唱えた。

東湖がいう”忠”とは京都の朝廷を中心とした新しい国造りであり、”孝”とは徳川幕府もその国造りに積極的に参加することで、この二つは矛盾しないと説いている。これが幕末の尊王攘夷派に大きな影響を与えている。

東湖の思想を端的に表現したものとして「正気歌」をあげたい。東湖四〇歳の詩作だが、文天祥の正気歌に擬したものといわれている。詩人の文天祥(1236~1283)は南宋末期の政治家にして軍人。字は宋瑞(そうずい)、号は文山(ぶんざん)といった。

宋の臣下として元と戦ったが捕らえられ、元朝には仕えず宋への忠節を守りぬいて刑死している。

■正気歌 藤田東湖

「天地正大の気、粋然神州に鍾る(あつまる)。秀でては不二の嶽となり、巍々千秋に聳ゆ。注いでは大瀛の水となり、洋々八洲を環る。発いては万朶の桜となり、衆芳与に儔し難し」で始まる東湖の「正気歌」は、この国を愛する日本人の琴線に触れるものがある。

天地正大氣,
粹然鍾 神州。
秀爲不二嶽,
巍巍聳千秋。
注爲大瀛水,
洋洋環八洲。
發爲萬朶櫻,
衆芳難與儔。
凝爲百錬鐵,
鋭利可割?。
?臣皆熊羆,
武夫盡好仇。
神州孰君臨,
萬古仰 天皇。
皇風洽六合,
明德侔大陽。
不世無汚隆,
正氣時放光。
乃參大連議,
侃侃排瞿曇。
乃助 明主斷,
??焚伽藍。
中郞嘗用之,
宗社磐石安。
淸丸嘗用之,
妖僧肝膽寒。
忽揮龍口劍,
虜使頭足分。
忽起西海颶,
怒濤殱胡氛。
志賀月明夜,
陽爲 鳳輦巡。
芳野戰酣日,
又代 帝子屯。
或投鎌倉窟,
憂憤正??。
或伴櫻井驛,
遺訓何殷勤。
或守伏見城,
一身當萬軍。
或殉天目山,
幽囚不忘君。
承平二百歳,
斯氣常獲伸。
然當其鬱屈,
生四十七人。
乃知人雖亡,
英靈未嘗泯。
長在天地間,
凛然敍彜倫。
孰能扶持之,
卓立東海濱。
忠誠尊 皇室,
孝敬事天神。
修文兼奮武,
誓欲淸胡塵。
一朝天歩艱,
邦君身先淪。
頑鈍不知機,
罪戻及孤臣。
孤臣困葛?,
君冤向誰陳。
孤子遠墳墓,
何以報先親。
荏苒二周星,
獨有斯氣隨。
嗟予雖萬死,
豈忍與汝離。
屈伸付天地,
生死又何疑。
生當雪 君冤,
復見張四維。
死爲忠義鬼,
極天護皇基。

天地正大の気、粋然神州に鍾る。秀でては不二の嶽となり、巍々千秋に聳ゆ。
注いでは大瀛の水となり、洋々八洲を環る。発いては万朶の桜となり、衆芳与に儔し難し。
凝つては百錬の鉄となり、鋭利?(かぶと)を断つべし。?臣皆熊羆、武夫尽く好仇。
神州孰か君臨す、万古 天皇を仰ぐ。皇風六合に洽く、明徳太陽に侔し。
世汚隆無くんばあらず、正気時に光を放つ。乃ち参す大連の議、侃々瞿曇を排す
乃ち助く明主の断、焔々伽藍を焚く。中郎嘗て之を用ひ、宗社磐石安し
清丸嘗て之を用ひ、妖僧肝胆寒し。忽ち揮ふ龍口の剣、虜使頭足分る
忽ち超す西海の颶、怒涛胡氛を殱す。志賀月明の夜、陽に鳳輦の巡を為す
芳野戦酣なるの日、又代る帝子の屯。或は投ぜらる鎌倉窟、憂憤正に?々
或は伴ふ桜井の駅、遺訓何ぞ慇懃なる。或は殉ふ天目山、幽囚君を忘れず
或は守る伏見の城、一身万軍に当る。承平二百歳、斯の気常に伸ぶるを獲たり
然れども其の欝屈するに方つては、四十七人を生ず。乃ち知る人亡ぶと雖も、英霊未だ嘗て泯びず
長く天地の間に在り、隠然彜倫を叙つ。孰か能く之を扶持するや、卓立す東海の浜
忠誠皇室を尊び、孝敬天神に事ふ。修文と奮武と、誓つて胡塵を清めんと欲す
一朝天歩艱み、邦身先づ淪む。頑鈍機を知らず、罪戻孤臣に及ぶ
孤臣葛?に困しむ、君冤誰に向つてか陳べん。孤子墳墓に遠ざかる、何を以てか先親に謝せん。
荏苒二周星、唯斯の気の随ふあり。嗟、予万死すと雖も、豈汝と離るるに忍びんや
屈伸天地に付す、生死復奚ぞ疑はん。生きては常に君冤を雪ぐべく、復見ん綱維を張るを
死しては忠義の鬼と為り、極天皇基を護らん

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