注目される【明日香に巨大方墳】    古沢襄


■舒明天皇か蘇我蝦夷か? 斉明天皇説も…考古学者の意見分かれる

△645年の乙巳(いっし)の変で日本歴史から姿を消した古代大族・蘇我氏くらい興味を惹く氏族はない。戦時中は悪逆非道の徒として触れることさえタブー視された。

だが戦後はタブー視された蘇我氏の実像を解明する研究がさかんになって、ヤマト建国時の日本の大王家だったという評価すら生まれている。

八世紀に藤原不比等が中心になって編纂されたという「日本書紀」では、天皇家と藤原氏の正統性がクローズアップされ、逆に歴史の敗者となった蘇我氏が葬られた観が否めない。

それだけに橿原考古学研究所が一月十五日に発表した奈良県明日香村の小山田遺跡の巨大方墳は興味深い。

橿考研は「舒明天皇の初葬墓の滑谷岡(なめはざまのおか)陵の可能性が高い」とみるが、その一方で専門家からは「蘇我蝦夷の大陵」などの説も出ているという。

△巨大方墳の一部が見つかった奈良県明日香村の小山田遺跡。近くには菖蒲池古墳や甘樫丘の丘陵がある

奈良県明日香村の小山田(こやまだ)遺跡で見つかり15日、橿原考古学研究所(橿考研)が発表した飛鳥時代最大級の巨大方墳(一辺50メートル以上)。

石舞台古墳を上回る規模や日本書紀の記述などから、橿考研は「舒明(じょめい)天皇の初葬墓の滑谷岡(なめはざまのおか)陵の可能性が高い」とみるが、裏付けとなる証拠は見つかっていない。

築造時期についても「7世紀中頃」と幅を持たせており、専門家からは「蘇我蝦夷(えみし)の大陵(おおみささぎ)」などの説も出ている。

飛鳥の歴史に詳しい猪熊兼勝・京都橘大名誉教授は「とてつもなく大きい古墳で、驚いている」とし、日本書紀の記述や、舒明天皇陵が同じ榛原石で装飾されていることから、被葬者の第1候補に舒明天皇をあげる。

「蝦夷の大陵の可能性もあるが、まず浮かんだのは舒明天皇の初葬墓である滑谷岡陵。発掘現場周辺には『谷』もあり、イメージに合う」と話す。

泉森皎(こう)・元橿考研副所長は「蝦夷の大陵」説だ。日本書紀皇極元(642)年の条に「(蝦夷が)生前に双墓(ならびのはか)を造る。1つが大陵で蝦夷の墓、1つが小陵で、入鹿(いるか)の墓とした」との記述がある。

見つかった方墳の西約150メートルには同じ方墳の菖蒲池古墳(一辺約30メートル)があり、泉森元副所長は「2つの古墳は『双墓』の典型。見つかった方墳は蝦夷の大陵の可能性が高い」とする。

橿考研OBの前園実知雄・奈良芸術短大教授も「蝦夷の大陵」の可能性を考える。

巨大方墳の一部が見つかった奈良県明日香村の小山田遺跡。近くには菖蒲池古墳や甘樫丘の丘陵がある

前園教授は榛原石が明日香村内の古墳や寺院で一般的に使われ、特殊性がないと指摘。「蝦夷と入鹿は発掘現場北側の甘樫丘(あまかしのおか)に邸宅があり、近くに墓をつくったと考えるのが自然。

方墳と菖蒲池古墳は方位がほぼ一致しており、乙巳(いっし)の変(645年)で死亡する前、権力が最高のときに蝦夷が巨大古墳を造ったと考える方がスムーズに理解できる」とする。

一方、千田稔・奈良県立図書情報館長は舒明説を否定しない一方、「築造が7世紀中頃なら、斉明天皇(舒明天皇の皇后)の墓の可能性がある」とする。

日本書紀によれば、斉明天皇は661年に崩御。「飛鳥川原で殯(もがり)をした」と記されている。殯は正式埋葬まで遺体を仮安置し、死者を弔う儀式で、千田館長は「方墳が見つかった現場の大字は『川原』。舒明説なども考えられるが、斉明天皇も被葬者の候補にあげられると思う」とする。

一方、長年橿考研で発掘調査を指揮した石野博信・兵庫県立考古博物館長は「まだ古墳とは断定できない」と慎重だ。「苑池(えんち)の可能性や、見たことがない石を使った未知の遺構の可能性もある。結論を急がず、遺跡の性格をはっきり突き止めることが大事だ」としている。(産経)

■乙巳の変

中大兄皇子、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。

その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。

俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともあるが、厳密にはクーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」である。

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