支那共産党には興味がないが、黄河古伝説には惹かれる   古沢襄


私が専攻したのは、清朝末期の支那社会と山東省に入ったドイツ人宣教師の虐殺という特殊なテーマだった。

何でこんな特殊なテーマにとりつかれたか?といえば、それなりの理由がある。このテーマで83歳になった今ででも関連資料の山を読んでは一人で楽しんでいる。

これから何回かに分けて支那史のことを書いてみたい。

楽しみのひとつは、黄河の流域に興った”支那イコール漢民族”の開明さと、その周囲にあって無知蒙昧といっていい野蛮な民族との争闘の歴史を読み解くことであった。歴史を読んでいると、文明が爛熟すると、必ずといっていいほど、内部崩壊とバーバリアンによる侵略で滅びている。

それはイギリスの歴史家エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の大作に詳述されている。ギボンの書はウインストン・チャーチルの愛読書であった。

支那の古伝説では、この漢民族を結合させた天子として堯と舜の名をあげている。堯はその人となりが”仁天”のごとく、その智が”神”のごとく、諸侯がみな悦服したので天下太平だったという。

堯の子は不肖にして諸侯が帰属しなかったので、至孝の聞こえが高い舜が天子となった。ところが舜の子も不肖だったので、禹に位を譲った。

禹の国は「夏」と称した。舜は黄河の氾濫を治めることができなかったので、禹は舜の命を奉じて四方に奔走して、地勢を察して治水の功をあげた。今から四〇〇〇余年昔のことである。

古伝説だから必ずしも正確な歴史とはいえないが、その裏にひそむ支那思想を推知できる。当時の漢民族は多くの小国が分立していて、黄河という”暴れ河”の氾濫に対処しなければならなかった。徳望のある天子を選び、その下で黄河の氾濫を治めることが、支那思想の基本となっている。

黄河は”暴れ河”ではあったが、同時に上流から豊かな恵みの土壌をもたらして流域住民に沃野をもたらした。定住・農耕に適する土地柄だったから、東アジアでいち早く国家を形成し、支那文化が開けた。

興味深いのは黄河の氾濫を治めた禹が舜のあと天子となったが、支那上代の伝説によると禹は河南省に「夏」という国を築き、その子・啓を天子に据え、以後、十余世・四〇〇年に及ぶ「夏王朝」が続いた。

徳望を以て天子となる”王道”が、「夏王朝」の隆盛に伴って”覇道”によって権力を保持することになったのは想像できる。禹のあと十余世の天子の中には不徳の天子が出て、諸侯の離反を招いたこともあったが、”覇道”によって抑え込んだ。

しかし「夏王朝」の最後の天子・桀の末路にみると、”覇道”に限界があったことが明快である。暴君だった桀は諸侯の離反を招き、暴虐が甚だしかったので、徳望で知られた河南省の湯によってあっけなく滅ぼされた。

支那上代史で最初の王朝といわれた「夏」だが、日本の歴史学会では古伝説として実在は疑われていた。だが、最近は実在説が有力となっている。

ウイキペデイアによると、司馬遷の『史記』では三皇五帝に次いで出現し、殷王朝に先立つ王朝とされる。

その始祖の禹(う)は、黄河の治水に功績があり、先帝の舜から天子の位を譲られたという。最後の天子の桀は暴君であったため人心が離れ、湯王に倒され殷王朝に交代したという。

日本においては、夏王朝の存在は甲骨文字などの文字資料が出土していないので否定的な意見も強く、伝承上の王朝とされている。

現在のところ、高校の世界史でもその程度の説明にとどまっているが、中国では戦後のめざましい考古学調査の進展によって、夏王朝の実在は確定したとされ、教科書でもそのように扱われている。

その王都は河南省の二里頭遺跡であるというのがほぼ定説となっている。最近では夏王朝よりさかのぼる尭や舜についても、それを実在の皇帝とする見解が強まっている。

日本の学界でも「夏王朝」を実在した王朝として取り上げる学者が増えており、近い将来は日本の教科書の記述も変わることが予想されている。

■夏王朝実在説

この夏王朝は、黄河中流域における農耕社会の形成の中で造られた伝説的な王朝であって実在したものではないと考えられていたが、最近黄河中流の竜山文化を夏王朝の時代とする主張も有力になっている。

現在注目されているのは、1950年代に発見された、河南省の二里崗遺跡(前1600年頃)と二里頭遺跡(前2000年頃)の青銅器文化である。

これらの遺跡で殷墟よりも古い青銅器が見つかっている。二里崗遺跡は殷時代にあたるとされており、それより古い二里頭遺跡を夏王朝のものとする説も有力になっている。二里頭から見つかっている城壁を夏王朝の都とする説がかなり有力となっている。

■新華社通信のニュース

中国科学院考古学研究所などは、二里頭遺跡が今から3600年以上前の中国最古の都ととしており、夏王朝が殷王朝(紀元前16世紀~同11世紀)に先立つ王朝として実際に存在した可能性がある。

遺跡からは面積10万平方メートルに及ぶ整然とした都市であり、宮殿跡は東西300m、南北360~370m、城壁の幅約2m、順序よく配列された建築群や、青銅器の祭祀用品が見つかっている。

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