「沢内年代記」を読み解く(三十五)  高橋繁

明治十一年 戊寅(ツチノエトラ・・・1878年の記録) 
【巣郷本の記録】
花巻より警察所が沢内に移ってきた。この年より沢内通りは西和賀郡となった。(郡役所を新町に置く。「沢内村史―年表」)

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七十五年目の二月二十六日 古沢襄

岸内閣の退陣以来、一つの内閣の終焉を数多く見てきたから、菅内閣の末路については、さほど関心を持たない。政権が末路を迎えると側近といわれる人たちは新聞を隠すようになる。忙しい総理のために・・と口実をもうけて差し障りのない切り抜きを作って総理室に届けるのが多くのパターン。

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安倍宗任より四十一代末裔の安倍晋太郎 古沢襄

何年か前に安倍晋太郎氏が北の王者・安倍一族の末裔だと書いたことがある。グーグル検索で「安倍晋太郎」と入れると安倍家の系譜にそのことが出ていた。晋太郎氏は元毎日新聞の政治記者、共同の清水二三夫氏、日経の大日向一郎氏と親しい仲であった。大日向氏には「岸政権・一二四一日」の著書がある。

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イスラエルの英雄・ハンナの生涯 古沢襄

西村眞悟氏の文章に触れるまで、第二次世界大戦でナチス・ドイツと戦い、22歳の若さで散ったユダヤ人女性レジスタンス・ハンナ・セネシュのことを知らなかった。1988年に米国でメナヘム・ゴーラン監督のもとで映画化されていた。 原題は「Hanna’s War」。

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根雪が積もる東北からの便り 高橋繁

昨年は政権後退の様相をよくよく見せつけられ、読ませていただきました。暮れの通信では西村慎悟氏の「忘れ得ぬ言葉よ」古澤先生の「日本政治は世界政治のローカル」「トイレの神様を聞く」が心に染みました。

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「沢内年代記」を読み解く(三十四)  高橋繁

明治六年 癸酉(ミズノトトリ・・・1873年の記録)
【巣郷本の記録】
酉より(この年より)地券さらにお調べ始まった。(明治五年の地租改正に伴い、政府が土地所有者を確認調査をする必要があった。この調査によって土地所有者に土地所有権を証明した証券を与えた。この券記載の
地価に基づき地租が賦課された。)

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日本神話は日本文学の祖(おや) 古沢襄

神武東征(じんむとうせい)は、初代天皇であるカムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話。この中に八咫烏が出てくるが、高句麗の建国神話・三本足のカラスとの類似が指摘されている。

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三本足のカラスの古代神話 古沢襄

中国や朝鮮などの古代神話に登場する”三足烏(さんそくう)”だが、韓国の朝鮮日報が「韓国文化の中でどのように形成され、時代によってどのような変化を遂げ、現代に至ったか」という美術史を専攻する学者の著作を紹介している。

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愛日小学校の大先輩だった大島浩 古沢襄

大島浩(おおしま・ひろし 1886年4月19日 – 1975年6月6日)と言っても知る人は少ない。元陸軍中将、アドルフ・ヒトラーの信頼を得た駐ドイツ特命全権大使、戦後、極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けたが、昭和30年(1955)に仮釈放されて、昭和50年(1975)に89歳で亡くなっている。

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楚人・項羽伝説と小沢一郎 古沢襄

日曜日なので久しぶりに寝坊をした。愛犬バロンは腹を上にしてイビキをかいている。寝ぼけ眼(まなこ)で昨日の杜父魚ブログ記事のアクセス状況をグーグル検索で調べたら「項羽と虞美人草の伝説」という昨年の元日に書いたエッセイが七〇〇〇本の記事中、二位につけている。

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書評 『評伝 若泉敬――愛国の密使』 宮崎正弘

「現代の橋本左内」と機密漏洩テロリストを一緒には論じられない。若泉敬の愛国が蘇る力作、その保守思想家にして行動者への思い入れ。

<<森田吉彦『評伝 若泉敬――愛国の密使』(文春新書)>>
若泉敬――懐かしい名前である。「愛国の密使」という副題もなかなか考え抜かれている、と思った。沖縄返還の密使として日本外交の舞台裏で大活躍した若泉は、国士でもあり、伝統保守主義でありながら、歴史家アーノルド・トインビーの文明論にも惹かれ、国際的な視野にたって、外交安全保障分野では数々の論文を書き残した。若き頃から『中央公論』などで大活躍だった。

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ヒトラー礼賛論者だった大島大使 古沢襄

英米と決別してナチス・ドイツと同盟関係を結んだ戦前の日本の歴史については、多くの研究書が著されているので、私が駄文を連ねる必要がない。戦後、平凡社の歴史事典編集部でアルバイトの原稿取りを二年ほどやったことがある。

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尼将軍の一言で七百年の武家・封建政治 古沢襄

正月の台風一過、わが家は五日から老夫婦と犬一匹の生活に戻った。十六畳のリビングが急に広くなった感じがする。庭に面した日当たりのいい所にソファーが置いてある。十五年以上も使っているので、買い代えた方がいいのだが、チロ、バロン一世、バロン二世が使うソファーなので、そのままにしてある。

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「沢内年代記」を読み解く(三十三)  高橋繁

明治二年 己巳(ツチノトミ・・・1869年の記録)
【巣郷本の記録】
この年もお役人様が通ること限りなく続いた。この年、南部藩の関所である越中畑の御番所は役人も引き揚げられ無くなった。この年光銭一文(微量の金、又は銀を含んだ一文銭)は十二文となって売買された。田畑の作物は下の下作となり、沢内通り一円は種を採ることができなかった。

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「沢内年代記」を読み解く(三十二)  高橋繁

元治元年 甲子(キノエネ・・・1864年の記録)
【巣郷本の記録】文久四年に改元があって元治元年となった。

【「岩手県史―第12巻(年表)」より】              
三月盛岡藩主南部利剛領内東海岸を巡視砲台を築く。七月武田耕雲斎の騒乱起こり盛岡藩兵江戸に上る、後九月藩主利剛も出府する。七月八戸藩主南部信順京都警衛を命ぜられる。十二月二十八日八戸町大火三百五十六軒寺院三ケ寺他を焼く。この年、稗貫志和地方打直検地新田検地あり。

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長野県が生んだ田中秀征氏の先見性 古沢襄

桜井よしこ氏が寄稿している「週刊ダイヤモンド」に細川護煕元首相のブレーンだった田中秀征氏も寄稿している。その論は先見性に富んだもので、教えられる事が多い。長野県人だが、この土地から幕末の佐久間象山のような鬼才の兵学者・思想家が生まれている。

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「沢内年代記」を読み解く(三十)  高橋繁

弘化四年 丁未(ヒノトヒツジ・・・1848年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は下作であった。年貢割合は元歩より四歩引きであった。七月初め頃より稲穂が少し出た。その頃より雨降り続きで大飢饉の様相であったが、八月は日照り続きで霜も降らなかった。刈り取った稲一束(稲を手で刈り取り小束にしたものを10束を合わせて1束・イッソク)から一升三合、よい田では一升五合(籾)収穫できた。入石(買い入れた米)一升(1.5㎏)五十文(約1,500円)ぐらいであった。

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「沢内年代記」を読み解く(二十九)  高橋繁

天保十二年 辛丑(カノトフウシ1841年の記録)
【巣郷本の記録】
☆作柄は中作  ☆御用金百五十両
作柄は中作であった。年貢割合は元歩より一歩引きであった。また、御用金(臨時徴収金)は百五十両(約、1,500万円)を仰せ付けられた。この御用金は小割(分割して)として納めることになった。正月閏あり。(「御用金百五十両は小割となる」は個々人に分割され、さらに納入時期も分割納入されたと思われる。)

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多賀谷大名の古沢武将たち 古沢襄

秋の晴れ間を利用して茨城県八千代町川尻にある赤松山不動院に行ってきた。私の家から車で四十分ほどのところ、この地の土豪で後に古沢姓を名乗った赤松家の墓所がある。この十数年、年に二、三度はこの墓所に来て調査を重ねてきた。

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国難・大津事件 伊勢雅臣

中国人船長を国内法を無視して釈放してしまった事件に関して、大津事件が思い起こされている。来日中のロシア皇太子を襲った凶漢に対して、政府はロシアを怖れて、死罪を求めるが、国内法を守って、それに待ったをかけたのが大審院(最高の司法裁判所)院長・児島惟謙(これかた)だった。

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「沢内年代記」を読み解く(二十八)  高橋繁

天保八年 丁酉(ヒノトトリ・・・1837年の記録)
【巣郷本の記録】
   ☆疫病はやる  ☆大飢饉の費用供出  
凶作。年貢割合は元歩より四歩引きとなった。一歩銀(一枚で、1両の1/4・1,000文。約25,000円)が始めて沢内通りに来た。
 
疫病(高橋又郎氏・高橋克彦氏の父、医学博士によれば、栄養失調になっているから種々の病原菌に犯されやすかったと思う。特に疫痢、赤痢が蔓延したと思うということであった)が流行した。去年の申年(1837)より今年六七月まで餓死した者は何万人になるのか数えることが出来ない。この大飢饉にあたり沢内通りで費用の供出を仰せ付けられた人数は次の通りである。

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津軽旅行と十三湊遺跡 古沢襄

秋になったら夏に続いて信州旅行をするつもりでいたが、急遽、それを変更して東北の津軽旅行をすることにした。東北の古代・中世史を考察するうえで、津軽地方の歴史は無視できない。個人的なことをいえば、父・古沢元は弘前の第八師団から満州のハイラルに渡り、侵攻してきたソ連軍と戦った。また第八師団は昭和天皇の皇弟・秩父宮少佐が大隊長として赴任している。二・二六事件の頃である。

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「対馬国志(3巻)」の受賞 馬場伯明

長崎新聞(2010/9/3)に嬉しい記事があった。抜粋(抄録)する。《第13回日本自費出版文化賞の最終選考会で、大賞に対馬市厳原町の郷土史家、永留久恵さん(89)の「対馬国志」(全3巻)が選ばれた。同賞は自費出版の普及を目的に日本グラフィックサービス工業会が主催する。

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「沢内年代記」を読み解く(二十七)  高橋繁

天保五年 甲午(キノエウマ・・・1834年の記録) 
【巣郷本の記録】
   ☆作柄は上々の出来  ☆穀物の値下がる 
作柄は上々の出来であった。七月より穀物の値段が下がった。白米は一升(1.5㎏)が二百文(約5,000円)から段々値下がりして、十月頃には六七十文(約1,750円)ほどになった。大豆は一升四十文(約1,000円)くらい、小豆は一升三十四五文(約、875円)籾稗一升十五文(約、375円)くらいになった。

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安東氏の末裔の方?からのコメント 古沢襄

ブログを運営している楽しみは、その土地の歴史に携わるブログと出会うことである。信州・上田に縁がある私は真田一族の出自に関心があった。杜父魚ブログにいくつかの”真田もの”を書いてきた。これを読んだ信濃大門氏から「渤海国人船代」など貴重な真田一族の研究ブログを寄せて頂いた。「歴史と神話 杜父魚ブログ」に転載させて頂いてある。

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「九戸政実の乱」と雫石・古沢理右衛門義重 古沢襄

十一回に及んだ「年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち」を書き終えてほっと肩の荷をおろした感慨に耽っている。年表だし、昭和文学史に関心がある人や長野県と岩手県の人たちにしか読まれないと思っていたので、杜父魚ブログに掲載するよりも、最初から「歴史と神話 杜父魚ブログ」に限定して掲載しようかと迷っていた。

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「沢内年代記」を読み解く(二十六)  高橋繁

天保二年 辛卯(カノトウ・・・1831年の記録) 
【巣郷本の記録】
   ☆七十七年来の寒波と豪雪 ☆飢饉の様相であったが上作 ☆盗人多くなる。
去年の寅年十一月二十三日 小寒入りした。その日から暖かく、二十七日地震があった。天候は良かった。二十八日より三十日まで大変に寒かった。

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年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(完) 吉田仁・古沢襄共編

◇3月26日,古澤襄編『びしやもんだて夜話――古澤元・古澤真喜遺稿集』を三信図書から刊行
◇4月5日,『岩手日報』が夕刊1面トップで郷土作家古澤元を紹介
◇5月3日,古澤元没後36周年
◇『びしやもんだて夜話』の紹介、『読売新聞』読書欄をはじめ『秋田魁新報』読書欄,『信濃毎日新聞』文化消息欄,『京都新聞』コラム,『福井新聞』コラム,『南日本新聞』文化欄,『神奈川新聞』学芸欄,『河北新報』読書欄,『西和賀タイムス』などに掲載される
◇池田源尚が古澤元・真喜を回顧したエッセイ「碧き湖を求めた夫婦」が『富山新聞』『北国新聞』に掲載される
◇深山栄が「激動の時代生き抜く」を『北日本新聞』に発表
◇岡田光正が『びしやもんだて夜話』を紹介した「ある遺稿集」を『北海道新聞』に発表
◇『広報さわうち』が「古澤元の生涯」と題して特集

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年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(10) 吉田仁・古沢襄共編

■1972年(昭47)   真喜63歳・襄41歳
◎1月9日,真喜は満62歳に
◎2月,真喜は小説300枚の構想をまとめ,「碧き湖は彼方」と題して書き始める
☆◎3月,襄が共同通信社の富山支局長に異動。家族も富山に移り、ふたたび真喜の独居生活が始まる
◎4月16日,武田麟太郎の葬儀委員長を務めた川端康成がガス自殺。真喜はショックを受ける
*5月15日,沖縄返還
*7月7日,田中内閣発足
◎10月4日,真喜が神奈川県相模原市の自宅で脳血栓で倒れ,左半身麻痺となる
◎☆11月中旬,真喜は襄の運転する車で富山市へ移り,市内の県立中央病院115号室へ入院
◎入院後,富山県内に住む『人民文庫』時代からの親友池田源尚が病院へ真喜を見舞う。27年ぶりの再会

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年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(9) 吉田仁・古沢襄共編

☆3月,襄は埼玉大学を卒業、共同通信社に合格
☆4月4日,襄は共同通信社の仙台支社編集部員として上野駅から任地へ向かう。仙台で為田大五郎(河北新報社会部長)と再会
◇5月3日,古澤元没後11周年
☆10月,襄・恵子が入籍
*沢内村長に深沢晟雄、助役に佐々木吉男

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年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(8) 吉田仁・古沢襄共編

■1947年(昭22)   真喜38歳・襄16歳
*1月18日,全官公庁労組が400万人を動員する2月1日のゼネストを宣言
*1月31日,GHQが2.1ゼネストの中止を命令
◇1月,真喜の実家である木村陶器店が再開
◇5月3日,古澤元没後1周年
*沢内村公選第一回村会議員選挙で北島暲男ら22人が当選

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年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(7) 吉田仁・古沢襄共編

■1944年(昭19) 元38歳・真喜35歳・襄13歳
◇1月,武田麟太郎がインドネシアから帰国
◇このころ,元は小説「議事堂」を『正統』に発表
◇1月,『正統』は1月号を以て廃刊
☆3月,襄は愛日国民学校を卒業
◇3月,古澤一家は6年間住んだ牛込払方町から,弟行夫一家の住む中野区都立家政へ転居。借家には畑があって大井上康(おおいのうえ・こう)の“大井上農法”と呼ばれる“栄養周期適期施肥論”の研究・実践に努め,沢内村にも普及に赴く

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年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(6) 吉田仁・古沢襄共編

■1940年(昭15) 元34歳・真喜31歳・襄9歳
*5月6日,菊池寛が提唱した文芸銃後運動の講演会が始まる
◇7月10日,内務省は左翼の出版物に対する弾圧を強化
◇7月,池田源尚・倉光俊夫が『麦』を創刊。古澤元も参加(作品発表は第2号から)。創刊号掲載の池田源尚「運・不運」は改造社の第12回文芸推薦賞を受賞,倉光俊夫は1942年11月『正統』に発表した「連絡員」で下半期の第16回芥川賞を受賞

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年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(5) 吉田仁・古沢襄共編

■1934年(昭9) 元28歳・真喜25歳・襄3歳
◇この年,小石川の白山上に転居。元は「覚え書」に詩を書きつけている。
   童 子(わらし)
 我 三歳の子もてり/我 妻をめとりて四歳を経ぬ
 我 二十八歳にして悲しみを知る
 理は心の糧ならず 無謀こそ

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年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(4) 吉田仁・古沢襄共編

■1926年(大15・昭1) 元20歳・真喜17歳
◇古澤元が盛岡中学を卒業。同期にのちの直木賞作家・森荘巳池、警視庁特高課長・伊藤猛虎がいる。弟の岸丈夫は肋膜で留年、そこで古津四郎(共同通信社記事審査室長)と同じクラス
◇3月、加藤新平(京大法学部教授)、佐々木吉男(沢内村助役)が新町小学校を卒業。親族の小田島房志(共同通信社政治部長)は新町小学校を卒業して日本大学に進学

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年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(3) 吉田仁・古沢襄共編

■1912年(明45・大1) 元6歳・真喜3歳< ◎1月8日、木村由信と静司は協議離婚し,由信は旧姓・山崎に戻る ◎1月9日,真喜満2歳< *4月13日、石川啄木死去 *7月30日,明治天皇薨去,大正と改元 *9月13日,乃木希典と静子夫人は明治天皇大喪のこの日,目白の自邸で殉死 ◇11月3日,古澤元の父で古澤家8代目の行道が死去。享年32。戒名は凌霜院行山機道清居士。湯田で鉱山を経営していた行道は,鉱業資材を買い付けに馬で秋田県に向かったが,その途中,大金を狙った二人組に扼殺された。鉱山の争奪をめぐる犠牲とも言われる 続きを読む

年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(1) 吉田仁・古沢襄共編

■1591年(天正19)
*南部藩の内紛「九戸政実の乱」起こる。二十六代南部藩主の南部信直は、豊臣秀吉の十万の軍勢の助けを借りて九戸城五千の守備軍を攻め、九戸政実一族を滅ぼす
■1601年(慶長6)
*和賀之郷を370年間支配した鎌倉ご家人の和賀氏が、秀吉に従わなかったため滅亡。一族の子孫は土着し、沢内村にもその流れが残った
■1625年(寛永2)
*古澤家の菩提寺となる曹洞宗・一点山玉泉寺が沢内村太田に開山
*助右衛門が湯田村左草を開く

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山口多聞海軍中将のお屋敷で捕った雀の雛 古沢襄

東京市牛込区というのは、今では東京都新宿区になったが、戦前はお屋敷街として知られていた。私の家はお屋敷街とはほど遠い貸家が並んだ長屋。前の家は昭和文学史に残る文学雑誌「日暦」の編集者だった古我菊治さんが住んでいた。隣は文学雑誌「人民文庫」の主宰者だった武田麟太郎一家と縁が深い洋裁師の小母さんがいた。いうなら戦前の文学横町だったと言っていい。

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「沢内年代記」を読み解く(二十五)  高橋繁

文政十年 丁亥(ヒノトイ・・・1827年の記録) 
【巣郷本の記録】
 ☆凶作 ☆獄門首
六月閏あり。作柄は凶作。年貢割合は文政五年(1822)より一歩引きの割合であった。この他に沢内中で百駄、約10.5tの割引があった。この割引高は一石(150㎏)の収穫に対して二升八合、4.2㎏ということになる。他領地の秋田・仙台領からの買い入れ米の値段は一升、1.5g当たり四十五文約1,125円であった。

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台湾窮地・中国の横暴を警戒せよ  桜井よしこ

今から28年前、中国人民解放軍の海軍提督、劉華清が大戦略を立案した。そこには幾段階かの具体的目標が掲げられており、第4段階の目標は2040年までに西太平洋とインド洋から米海軍を排除し、同海域に中国の覇権を確立するというものだ。

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一九四四、五年の冬将軍 古沢襄

ロシアの沿海州、シベリアの各都市には、二度行ってきたが、どの都市にも赤の広場があってレーニン像や戦車が飾れている。高いモニュメントがあって、大祖国戦争の戦死者の名を刻んだ大きな碑も立っている。その数を合わせると対日戦で、日本軍よりも多くの戦死者を出したことなる。

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最後の殿様の「最期」:徳川慶喜 平井修一

<武家政権最後の征夷大将軍。明治2(1869)年9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。政治的野心は全く持たず、写真、狩猟、投網、囲碁、謡曲など趣味に没頭する生活をおくり、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。

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根本博陸軍中将の「義に報いるに義を以てす」 古沢襄

八月は鎮魂の月である。これを機会に一人の軍人の生涯をフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の全文を引用してみる。根本博(ねもと・ひろし)陸軍中将・・・戦後、いく度か話題になったが、全貌が掴めずに毀誉褒貶の渦のまま忘れ去られてきた。

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65年目の敗戦の日 古沢襄

敗戦の日がやってくる。1945年8月15日を長野県上田市郊外の小さな村で迎えた。この村に漫画家の横山隆一さん一家も疎開していた。玉音放送があるというので、母と私はその時間にラジオをつけて聞いたが、雑音が多くてよく聞き取れなかった。横山隆一さんの長女の方が、遊びにきたので、小学校にも入っていない彼女を連れて、近くの川にカジカ突きに出掛けた。8月15日の記憶はそれしか残っていない。

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「沢内年代記」を読み解く(二十三)  高橋繁

文化二年 己卯(ツチノトウ・・・1819年の記録) 
  ☆二朱銀貨来る ☆五人組、組み直し ☆御境奉行・御境古人新町より出る
  ☆新町稲荷堂改築 ☆盛岡城内に光堂建立 ☆牢者解放・追放者所替え
①作柄は上作であった。「下巾本」には「上々作」とある。秋上げ(秋の米価)は当分はよし(妥当な価格であった)。課税割合は安永四年(1775)の元歩より一歩増しとなった。四月閏あり。「下巾本」には「八月閏あり」とあるが「草井沢本」には「四月閏あり」と記録されている。「白木野本」には「閏」についての記録はない。

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「沢内年代記」を読み解く(二十二)  高橋繁

文化十三年 丙午(ヒノエウマ・・・1816年の記録) 
  ☆苗代に積雪 ☆職人の監察取り上げ ☆代官役所改・修築 ☆桂子沢肝入交代
  ☆秋田米を盛岡に運ぶ ☆二歩金(金貨)沢内に来る?
①作柄は中の上、平年より少し良い出来具合であった。「秋揚げ当分よし」(秋上げは稲作が不良のために米価が上がることである。「当分よし」ということをどのように理解するかが問題である。

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「沢内年代記」を読み解く(二十一)  高橋繁

文化十一年 甲戌(キノエイヌ・・・1814年の記録)   
☆巣郷本の記録様式変わる ☆作柄凶作 ☆女性は眉毛を剃れ ☆隠し鋳銭座焼かれる ☆下前に隠し鋳銭座立つ
①春雪がたいへん多く降り、四月十日頃まで所々に雪が消えずに残った。旧暦の四月は現在の五月に当たる。「所々に雪がある」というのは家の軒下や日陰だけでなく、田畑の「所々」にも雪が残ったということである。四月十六日天気は良かった。

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和賀の名の由来は鎌倉御家人の和賀氏 古沢襄

東北新幹線の北上駅に近づくと和賀川と北上川が見えてくる。雪解けの時期には水量が増して、まさに滔々たる大河の面持ちをみせてくれる。和賀川沿いに奥羽山系に向かうと和賀郡、和賀町、西和賀町と四〇〇年前に滅亡した和賀氏にちなむ名前の地が多い。

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「沢内年代記」を読み解く(二十)  高橋繁

文化七年 庚午(カノエウマ・・・1810年の記録)  
☆廻戸川の殺人  ☆馬の競り市の上納金なし  ☆奥州南部何郡の何村と名乗れ
①米の作柄は上作。課税割合は昨年と同じ、安永四年(1775)の元歩であった。大豆、小豆下作。粟は上作。御代官 多田専右エ門、沖伝右エ門。入石(他領からの買い入れ米)一升(1.5kg)の値段三十五文(875円)であった。
②十二月二十三日。秋田稲庭(いなにわ)の太吉という商人が仙台からの帰り、廻戸川(まっとかわ)で一緒にいた者に殺された。この事件は結局「フギタオレ」(吹雪のために歩行できずに疲労のために死ぬこと。「吹雪倒れ」と記すのが一般的であるが、記録者は「風」の部首から「虫」を取り去り、代わりに「雪」を書き込み「ふぎ」とルビをつけている。造字である。)ということで処理された。

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東北蝦夷の誇りをもっていた藤原清衡 古沢襄

父・古沢元の故郷である岩手県沢内村を訪れたのは1982年、28年も昔のことになる。少年時代を母の実家がある長野県上田市で過ごしたので、岩手県は未知の世界であった。この年の2月に母が亡くなった。死に水をとりながら、母と父の遺稿集を出そうと思い立った。シベリアで果てた父の墓は川崎市に建ててある。

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四散しても末裔を残した安倍一族の系譜 古沢襄

天孫族に抵抗した北の王者の頭領・安倍貞任は、厨川柵(盛岡市)で戦死して一族は四散したが、その末裔は歴史に名を残している。私の小学校は東京・新宿区の愛日小学校といったが、仲の良い同級生に広沢中任(なかとう)さんがいる。兄は高任(たかとう)さん、弟が末任(すえとう)さんの三人兄弟。

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幻の中世都市・十三湊と興国の大津波 古沢襄

1987年7月末に安倍晋太郎氏が画家の岡本太郎氏と一緒に訪れた青森県五所川原市は、作家・太宰治の生まれ故郷だが、幻の中世都市・十三湊としても有名である。1340年に起こったとされる興国の大津波で一瞬のうちに壊滅したと伝えられている。

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あらはばき神と安倍晋太郎氏 古沢襄

安倍晋太郎氏が亡くなって19年間の歳月が去った。秘話になるが、1987年7月末に晋太郎氏は洋子夫人と息子の晋三氏を伴って、青森県五所川原の石搭山・荒覇吐(あらはばき)神社に参拝している。同行したのは画家の岡本太郎氏。

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「沢内年代記」を読み解く(十九)  高橋繁

文化二年 乙丑(キノトウシ・・・1805年の記録)  
☆藩主利啓公従四位に叙せらる
①屋形様(南部藩の殿様・第三十六代利啓公。屋形は利啓公の号で、私称にして使用は領内に限られる「南部史要」)は「四品の御位」(しほんのおんくらい・令制で定められた親王の位、一品から四品まであった。)となる。「南部史要」には、「十二月十六日公従四位下に叙せらる。時に年二十三、古例によるに四位に上るは年四十以上なるも、公蝦夷地警護の功あるため特にこの栄進あるたるなり」とある。

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井尻千男『明智光秀 正統を護った武将』 宮崎正弘

信長が合理主義の近代をひらき経済自由主義者だったという妄説を駁す。明智光秀は謀反人ではなく義挙をとげた悲劇のヒーローではないのか。

正統とは何か、歴史とは本質的にいかなる存在か。なぜ正統なる価値観が重要なのか?歴史と正面から向き合い、国家の自尊をもとめて行動する知識人=井尻千男氏は主権回復国民運動の中枢を担い、歴史認識の正論を国民に問うために戦い続ける。

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