「沢内年代記」を読み解く(十八)  高橋繁

寛政十一年 己未(ツチノトヒツジ・・・1799年の記録)  
☆八月十九日大風(台風)吹き荒れる。  ☆下前川の橋架け替えなる。
①米は上々の出来具合であった。課税は安永四年(1775)の元歩より二歩増し(「巣郷本」「白木野本」「草井沢本」。「下巾本」だけが「一歩増し」となっている。)
②御代官 澤田宇右エ門、葛西市右エ門入石(他領より買い入れた米)一升(1.5㎏)は三十六文(1.080円から1.800円)であった。

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「沢内年代記」を読み解く(十七)  高橋繁

寛政六年 甲寅(キノエトラ・・・1794年の記録)  
◇新町堰の工事始まる  ◇鳥海山の噴火  ◇横綱谷風の死
①米、農作物の出来具合は中ぐらいの出来。平年作並の出来であった。
②年貢割合は去年より二歩安くなった(「巣郷本」「白木野本」)「下巾本」には「去る丑の年の通り仰せ付けられた」とある。「下巾本」の記録は代官所の側に立った記録が多いことから、あるいは「二歩引き」はなかったかも知れない。
御代官 大里所右エ門、箱石覚右エ門

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平和国家は歴史に名を残さない 古沢襄

シニカルな言い方をすれば、戦後60年以上も続いた平和の時代は、これが百年続こうと歴史には残らない気がする。言い方が悪いかもしれないが、歴史というのは戦争、争乱、征服、侵略の集大成だといえる。今の様な平和な時代は、後世になってドラマチックな要素に欠けるので、小説やドラマになりくい。

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「沢内年代記」を読み解く(十六)  高橋繁

寛政元年 己酉(ツチノトトリ・・・1789年の記録)  
①米、農作物の出来具合は下作。例年以下の出来であった。年貢課税割合は安永四年の割合より、三歩安くなった。
②御代官 野々村七右エ門、日戸善兵衛。
③御買上米高 一石(150㎏)につき一升(1.5㎏)余りの税であった。
④「草井沢本」
 ◎寛政元年になる。 4月15日に月蝕。10月1日に日蝕、6分欠ける。閏6月あり。田畑の収穫は半作(平年の半分の収穫)。

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「沢内年代記」を読み解く(十五)  高橋繁

天明六年 丙午(ヒノエウマ・・・1786年の記録) 
①米をはじめとする作物は出来が悪く、下の下作。稲は青絶ち(生気がなく枯れそうになっている)。毛見役が来て作柄視察・検査し上納した。御代官本宿弥惣右エ門、坂牛吉右エ門。
②この年米一升(1.5㎏)が七十文(1文30円とすれば2.100円。1文50円とすれば3.500円)。秋田から来た米は一升、八十文(2.400円から4.000円)という高値であったので人々は困窮を極めた。
③このような現状を見届け検分されたのは七之戸安右エ門、上野甚右エ門であった。

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南船北馬の伝統がいまも深く根付く中国 宮崎正弘

獄中のホドルコフスキー、釈放求めハンガー・ストライキへ。不正蓄財、脱税、不法送金などプーチンがでっち上げた冤罪。

かつてロシア新興財閥の象徴にしてロシア第二の財閥だったミハイル・ホドルコフスキー(元「ユコス」社長)は03年に突如逮捕されて以来、まだ獄中にある。

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扶余・高句麗・百済と新羅の建国神話 古沢襄

古代朝鮮の高句麗、新羅、百済三国の歴史は、まだ未解明な部分が多い。ひとつには戦前・戦中の古代朝鮮史の研究が日本人研究者の手に委ねられ、一定の水準を保ちながら、それ以上のものになり得なかった事情がある。

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「沢内年代記」を読み解く(十四)  高橋繁

天明元年 辛卯(カノトウ・・・1781年の記録) 
①五月閏あり。米をはじめとする農作物の出来具合は悪かった。下作。課税歩合は安永四年の未の年より一歩(1%)安くなった。入石(他領地・秋田藩や伊達藩から買い入れた米)は一升あたり三十文(900円から1.500円)であった。「草井沢本」には入石は、清水カ野の久左エ文の家に入る。(取り扱った)と記録されている。
②五月二十七日大洪水になり、湯本の山室橋が流れ落ちた。橋架け替えの時、紛失して十四年もなる湯本の薬師如来像が、湯田の佐吉の子、巳之助という者によって山室の淵より拾い上げられた。(神社に奉納された。)

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サソリ王妃に刺されたジンギス汗 古沢襄

北アジア史に興味があった私は、「蒙古源流」に出てくるグルベルジン・カトウンという美妃の悲話に心を惹かれる。グルベルジン・カトウンは別名でサソリ妃、シルクロードの要衝の地で、交易で栄えた西夏の王妃であった。

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「人斬り以蔵」と坂本龍馬 平井修一

龍馬が幕末維新の「明」なら、同じ土佐藩出身の岡田以蔵は「暗」だろう。二人は青雲の志を抱いて国を後にし、同士として交際したが、龍馬は「維新の奇才」として讃えられ、以蔵は「人斬り以蔵」として軽侮され、没後145年の今でも以蔵を讃える人は少ない。

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「沢内年代記」を読み解く(十三)  高橋繁

安永四年 乙未(キノトヒツジ・・・1775年の記録)
①十二月一日 日蝕。
②二月七日 赤雪降る。(赤雪は、中国から季節風によつて運ばれてくる黄砂のこと。現在も二月初めから三月にかけて降る。白い雪に積もるので冬は目立つ)積もること六寸余り(1寸は3.3cm。6寸は約20cm)。黄砂だけでなく雪と混じって積もった量と思われる。それにしても、一日に降った量としては記録的に多い量である。

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鳩山一郎氏が参拝した「出世明神」と高句麗神話 古沢襄

参拝すれば総理大臣になれるという「出世明神」が埼玉県日高市新堀にある。鳩山首相の祖父・鳩山一郎氏もこの神社を参拝した後に首相官邸の主になった。歴代の総理大臣では浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎氏らが参拝していた。政治家というのは”縁起”を担ぐところがあるらしい。

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「沢内年代記」を読み解く(十二)  高橋繁

明和五年 戊子(ツチノエネ・・・1768年の記録)
①十二月一日 日蝕。正月四日五つ時(午後八時)地震があった。
②六月五日に雨が降ったが、六日から七月十一日まで日照り(旱)が続いた。
③七月二十八日 大地震。八月二十九日霜が降る。地震と天候不順は人々の不安を募らせたに違いない。しかし、田畑の出来具合は「中の上」とある。

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岸丈夫さんの「阿片吸引の図」 古沢襄

漫画家・杉浦幸雄さんの義兄に岸丈夫さんという戦前に売れた漫画家がいた。岸丈夫さんは岩手県西和賀町沢内の出身、漫画家になる前に油絵の洋画家だった時代がある。昭和9年(1934)にふらりと満州旅行に出た。

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五摂家筆頭の近衛家は藤原鎌足の子孫 古沢襄

天皇、皇后両陛下主催の春の園遊会でフィギュアスケートの浅田真央選手が「このたびは本当におめでとう」と天皇陛下から声をかけられた。オリンピックの大舞台で緊張もせずに銀メダルを手にした真央ちゃんが、「はい」を四回、「ありがとうございます」を四回繰り返しただけ。

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乃木希典学習院長が集めた生徒の家紋 古沢襄

他家の墓を見て回るのは他言を憚る趣味なのだが、この”墓荒らし”を始めて二十年近くになる。還暦を迎えた頃、家の紋章である「家紋」に興味を持った。家紋の研究書には大正十四年発刊の「日本紋章学」がある。沼田頼輔氏が明治書院から発刊した一千数百ページに及ぶ大著だが、戦後の家紋に関する本は「日本紋章学」に依拠するものが多い。

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奈良時代初期からある古沢黒島の地名 古沢襄

この十五年ほど春が来ると茨城県の下妻市や八千代町を必ずといってよいほど訪れてきた。ことしもその季節がやってきたが、底冷えする陽気に災いされて足が鈍っている。七十八歳の身には寒さが禁物。心は鬼怒川の河畔に飛んでいるが、川風は年々歳々、身に堪える様になった。

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関東で勢威を振るった多賀谷氏の夢の跡 古沢襄

関東で一千挺の鉄砲隊を擁して徳川家康から怖れられた戦国大名・多賀谷氏の居城は、茨城県の下妻市にあった。寛正三年(1462)に下妻城が築城されたが、周辺を沼地に囲まれ、大宝沼と砂沼に挟まれた島状の高台に築かれた水城だったという。

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「沢内年代記」を読み解く(十一)  高橋繁

宝暦七年 丁丑(ヒノトウシ・・・1757年の記録)
①十二月十五日 月蝕。
②田は上作。米は平年以上によい実りであった。しかし、凶作が続いたのでこの年まで難儀(苦労)した。(「下巾本」)
③去年の不作のため、米一升の値段は百三十文(6.500円)であった。(「草井沢本」)

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地球温暖化が亜氷期を招く 古沢襄

地球上でホモサピエンスが誕生したのは20万年前(猿人は百万年前)のアフリカだったといわれている。それが北上して、一つの流れはアジアに向かい、もう一つの流れはヨーロッパに向かったと言われている。

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中国を正しく知ろう、歴史に学ぼう 加瀬英明

中国が眩しく輝いているように見える。中国経済が巨大化しているために、東南アジアの国々が中国へ草木のように靡いている。日本でも、小沢一郎与党幹事長が数百人の群臣を率いて、北京へ朝貢したことは記憶に新しい。

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沢内年代記を総覧的に読み解く高橋繁さん  古沢襄

高橋繁さんの「沢内年代記を読み解く」や私の「孫娘の卒論・退休遺書に教えられる」がよく読まれている。想像も出来なかったが米国や中国の日本人ブログにも転載されていた。私自身も経験があるのだが、海外で一人でホテルの夜を過ごすと、日本が懐かしく愛国者的になる。

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孫娘の卒論「退休遺書」に教えられる 古沢襄

高橋繁さんの<「沢内年代記」を読み解く(十)>は、宝暦六年・丙子(ヒノエネ)一七五六年の記録まで来た。この宝暦年間に遡る延享五年(1748)に作られた沢内・古沢氏の墓碑が残っている。

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「沢内年代記」を読み解く(十)  高橋繁

延享元年 甲子(キノエネ・・・1744年の記録)
①この年から節気を表す暦の組み合わせは、「上段」の組み合わせに従う。
②四月にになり、鶏が羽ばたきするようになった。沢内通りの全ての鶏のことを指しているのだろうか。1742年(寛保2年)の記録に「この年より鶏羽ばたきなし。」とあつたから、それから3年目になって、鶏が羽ばたくということであるから、鶏にとって異常な年が続いたことになる。

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「沢内年代記」を読み解く(九)  高橋繁

元文元年 丙辰(ヒノエタツ・・・1736年)の記録 
①御代官 毛馬内権左エ門 五月沢内にて病死。御代りとして照井多左エ門様お出でになる。葬儀等の後始末は、どうなされたものて゛あろうか。代官毛馬内様の遺体は、ご自宅に運ばれたのであろうか。ご自宅が盛岡にあったとすれば一日がかりのはずである。越中畑の関所役人の妻が亡くなった時には関所役宅の近くに葬ったと伝えられ、お墓もあったということである。当時は土葬がほとんどであったということであるから、あるいは代官所のある新町のどこかにお墓がああるかもしれない。

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東北の馬の由来はツングース系 古沢襄

岩手県沢内村には大正時代の末期まで、茅葺きの私の家があった。共同通信社の政治部長だった小田島房志さんが「君の家屋敷には大きなケヤキの木があって、その前を通りながら小学校に通ったものだ」と述懐していた。小田島さんは沢内村の出身、あだ名は”岩手牛”。私の遠縁に当たる。

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「沢内年代記」を読み解く(八)  高橋繁

享保十二年 丁未(ヒノトヒツジ・・・1727年の記録) 
①五月は 閏月であった。
②五月二十日 洪水。この洪水は、和賀川の支流である沢々から流れ出る小川だけであった。和賀川の本流は洪水にならなかった。現在の「ゲリラ豪雨」、部分的な大雨による洪水のように思われる。
③御代官 横沢武次右エ門 澤田十右エ門

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学習院廃校を救った山梨勝之進学習院長 古沢襄

共同通信社の社長だった犬養康彦さんは「昭和20年の終戦の直後から、21年10月に安倍能成さんが院長に就任されるまで一年余りの間というのが、学習院の存続の危機の期間だったと思う。当時の山梨勝之進院長時代に、宮内大臣として石渡荘太郎さんという偉い先輩がいて、この石渡さんと山梨さんが中心になられて、学習院の歴史を護った」と回顧している。

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不束かなれども宗任様の婦とされたし 古沢襄

松浦と書いて「マツラ」と呼ぶ。「マツウラ」ではない。「マツラ」の松浦姓には、古い歴史が存在している。「北条九代記」の巻・第十一、「蒙古来襲 付けたり神風 賊船を破る」の項に”弘安の役”の海戦の模様が出てくる。

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無礼に怒った鎌倉武士の面目 古沢襄

日本の中世史で興味を惹かれるのは、朝敵・逆賊といわれた足利尊氏が開いた室町幕府である。この時代に中国大陸や朝鮮半島との交流が顕著となって、華麗な室町文化が花開いている。さらには、その前史となる鎌倉幕府とくに北条執権時代が面白い。

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「沢内年代記」を読み解く(七)  高橋繁

享保二年 丁酉(ヒノトトリ・・・1717年の記録)  
①この年、米の収穫高は平年の半分、「半作」であった。去年の「申」(サル)年は、米の実りが悪く(不塾)であったので、米の値段は上がった。1升(1.5㎏)は、40文(2.000円)から45文(2.250円)になった。《注:この年、大岡越前守忠相江戸町奉行に任命される。幕府、享保元年より「享保の改革」を開始している。「歴史年表」より》

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幕末イタリア使節が見た日本の宗教 信濃大門

19世紀の初め鎖国日本では、長崎だけが唯一の外国との接点地で特にオランダとは密接な関係にありましたが、このころになると相次いで、長崎にアメリカ船、イギリス船が姿を見せるようになりました。

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「世界」の「戦後保守政治の軌跡」 古沢襄

今では書店にいっても見かけない岩波書店の月刊誌「世界」だが、戦後の混乱期からベトナム戦争にかけて知識階級が一番読んだ雑誌ではなかったか。その「世界」の一九八〇年四月号から翌年の一九八一年四月号に十回にわたって「戦後保守政治の軌跡」と題した鼎談が連載された。

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「沢内年代記」を読み解く(六)  高橋繁

正徳元年 辛卯(カノトウ・・・1711年の記録)  
《注・宝永六年(1709年)1月10日、徳川五代将軍綱吉が没する。5月1日に、綱吉の兄綱重の子を養子にした家宣が六代将軍となる。「生類憐れみの令」は廃止された。「日本歴史年表」より》
①節気の「寒」に入って三十日間 少しの風も吹かなかった。  「少しの風も吹かない30日」の天候はどんなものか。晴れの日が30日続いたのだろうか。吹雪がないのだから、過ごし易かったと思われる。米や農作物の作柄に直接関係のない、冬季での無風であるのが残念であったに違いない。

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「沢内年代記」を読み解く(五)  高橋繁

宝永元年 甲申(キノエサル・・・1704年の記録)
①「改元有テ宝永トナル」 年号が代わって宝永になった。幕府の財政は厳しさを増す一方であったので、勘定奉行、荻原重秀を中心に財政の建て直しに懸命であった。貨幣改鋳し、幕府役人の整理などを実施していることから、財政改革をし豊かな年にするという意味からの改元であるように思われる。

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「沢内年代記」を読み解く(四)  高橋繁

元禄元年 戊辰(ツチノエタツ・・・1688年の記録)  
①越中畑(えっちゅうはた・岩手秋田の県境・南部藩の関所があつた)の者たちが、謀議をこらし、山内村(秋田横手市)の南郷弟助という人の家に、夜、強盗に押し入った。

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松本徹『風雅の帝 光厳』(鳥影社) 宮崎正弘

稀にしか味わうことの出来ない寂寥と哀切。読了ののち、一言の感想をいえば、歴史の寂しさ、絶望、生きとし生けるものの冷酷さと残酷さである。そして全編に漂う容易ならざる虚無。いやこれこそが日本人の情感なのか。

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鎖国から開国、独立へ 平井修一

産業革命による近代化のツナミが極東の桃源郷のような小さな島国に押し寄せてきた。

徳川幕府の鎖国政策は元和2(1616)年、シナ(明)以外の船の入港を長崎・平戸に限定することから始まり、寛永12(1635)年にシナ・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、日本人の渡航と帰国を禁じたことでほぼ完成した。

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日本古代史の扉を開く二つのニュース 古沢襄

古代史に関するニュースが相次いでいる。一つは推古天皇(6世紀末)から桓武天皇の時代(8世紀末)にかけての約200年間にわたる「天皇のよろい」の一部が京都府の長岡宮跡から発見された。

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♪いい湯だなアハハン 平井修一

先日、久し振りに風呂に入った。と言ってもシャワーだが、43度のお湯を浴びて、全身をシャボンでしっかり洗った。20分もかかったから、風呂嫌いの小生にとってはほとんどショック体験である。

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「沢内年代記」を読み解く(二)  高橋繁

〔延宝元年 癸丑・・・1673年の記録〕「沢内年代記」の記録の始まりである。

①「寛文十三年に年号が変わって延宝となった」と記されている。
癸丑(ミズノトウシ)は「十干十二支」の組み合わせの年であるから変わらない。年号が変わることを「改元」という。中国では漢の時代から皇帝の交代、治政方針の改正に合わせて改元された。

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アイヌとの同化・融和・共生の歴史 伊勢雅臣

■1.「先住民族の権利に関する国際連合宣言」

平成20(2008)年6月6日、衆参両議院において、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で可決された。それは次のような文章から始まる。

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先住民の参加色濃いバンクーバー五輪開会式 古沢襄

カナダ・ヨーク大学のテッド・グーセン助教授の「暗夜行路における自己と自然」、カナダ・ヴィクトリア大学助教授の「泉鏡花の超自然主義」、カナダ・トロント大学のアンソニー・リーマン教授の「風景の川、文体の川」という三論文の邦訳テキストを読んだことがある。

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縄文的なものと弥生的なものの二面性 古沢襄

現代では、松本秀雄氏がGm遺伝子の観点から、日本人の等質性を示す「日本人バイカル湖畔起源説」を提唱しており、また、ヒト白血球型抗原の遺伝子分析により、現代日本人は周辺の韓国人や台湾人よりも等質性が高い民族であるとの報告もある・・・かなり専門的な説明なので、私流に解説すると

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卑弥呼を演じるのは女優・浅野温子が適役 古沢襄

古代出雲国を書いたら、産経新聞が邪馬台国の女帝・卑弥呼のことを書いていた。中国の歴史書「魏志倭人伝」に卑弥呼のことが出てくるが、「魏」にしてみれば東海の孤島の話である。伝聞によるものだろうから、短いつかみ所ない説文で終わっている。

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「沢内年代記」を読み解く 高橋繁

「沢内年代記」は、岩手県西和賀町が「沢内通り」と呼ばれていた時代から伝承された年代記である。

1673年(延宝元年・今から337年前)から始まり、1900年(明治33年)まで記録されている。この年代記は、年毎の農作物の作柄や出来事を記した記録集である。

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内蒙古・寧夏・甘粛・青海 古沢襄

西川一三さんの「秘境 西域八年の潜行」は、とにかく面白い。二日間かけて上巻を読み終えたところである。上巻は万里の長城の北、内蒙古自治区のバインタラ沃野から始まっている。その北にはモンゴル人民共和国がロシア・シベリアと国境を接している。

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日本人のルーツ・ブリヤート人? 古沢襄

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に「ブリヤート人」の記載がある。まだ書きかけの記載なので、断片的なそしりを免れないが、北アジアの歴史に関心がある方は、一応は目を通しておく必要がある。
さらには司馬遼太郎氏の「ロシアについて 北方の原形」は、北アジアの歴史に関心を寄せた司馬作品の覚え書きとも言うべきものである。「坂の上の雲」や「菜の花の沖」を執筆した七年余り、司馬氏はロシアの特異性について考え続けたと言っている。

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縄文土器が生まれる前の日本列島 古沢襄

多くの日本人のルーツはシベリアのバイカル湖周辺という北方系説が確立したのは、DNA鑑定が決め手となった。それまでは古事記や日本書紀で伝わってきた神々の神話の世界に起源を求めた南方系説が有力であった。

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大彦命と建沼河別命が会津でめぐり合った 古沢襄

会津の名称について地元の人から「3世紀頃、四道将軍の大彦命が北陸道から、子の建沼河別命が東山道を遠征し、出会ったところが”相津”だった」と聞いたことがある。こういう話には滅法、取り憑かれる私なので古代史に詳しい学者の知見を調べまくった。

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趙紫陽著、『趙紫陽極秘回想録』 宮崎正弘

幽閉時代の十六年間、趙紫陽は何を考えていたのか。守旧派のとの熾烈な権力闘争になぜ敗れたのかが了解できる。

「天安門事件」で学生への対策が生ぬるいとして長老達から糾弾され、突如、失脚させられた趙紫陽・総書記は世界のマスコミ、民主派の学生、知識人からいまも名声が高い。

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原始仏教考  信濃大門

一夜賢者の偈 「いま、この瞬間」の重要性については、エックハルト・トール著「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(徳間書店飯田史彦監修 あさりみちこ訳)」を読むとかなり理解しやすいが、「いま、この瞬間」を再考すると気づきの原点の教えは、一夜賢者の偈であると改めてブッダの偉大さを感ずる。

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大伴神社考  信濃大門

東信史学会機関誌「千曲」第18号・第19号に掲載されている一志茂樹氏の「名族真田氏の発祥について」によれば、「真田氏は大伴氏の流れをくむもので真田地籍に私牧を持つ豪族で後に国牧をつくったものたちであり、滋野氏の系図のできる頃より多くみて200年、少なくとも150年ぐらい前に真田氏は存在していたと考えねばならない。」と真田氏の大伴氏からの発祥の可能性を示している。

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信州と信濃国  信濃大門

平成16年5月20日付の信濃毎日新聞文化面に市川県立歴史館館長の信州という地名は鎌倉時代に僧侶が普及という小論が掲載されていた。

信州という言葉の今日文献上確認される最古のものは、平安後期の治承3年(1179年)仁科盛家が八坂村の覚音寺に千手観音像を造立した。

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