阪神タイガース

安田 紀夫

 阪神タイガースが元気だ。五月半ば、米子市民球場での対広島戦で二連勝。 強風雨のなかで行われた試合を勝ったことから、スポーツ紙はいっせいに 「米子で阪神に神風が吹いた」と書いた。五月は十三勝九敗で二位堅持。六 月に入ると、中日が腰砕けになったこともあって、十日には単独首位である。

 戦争が終わったとき小学四年生。「軍艦遊戯」などで遊んでいたのが戦後 一、二年たってみると、いつのまにか遊びの中心は野球になっていた。ズッ クのグラブに糸巻きのボール。どうして突然野球が広がったのか。当時、皆 生温泉に住んでいたが、地元の青年団などがリーダー役だったから非行防止 的意味もあったのだろう。昭和二十二年、阪神は打撃ベストテンに四人が名 を連ねるダイナマイト打線で優勝した。次の年、慶応の別当が加わる。その 強力ラインナップはいまでもソラでいえる。
(1) 呉(中)
(2) 金田(左)
(3) 別当(右)
(4) 藤村(三)
(5) 土井垣(捕)
(6) 本堂(二)
(7) 安居(一)
(8) 長谷川(遊)
(9) 若林、御園生、梶岡(投)

安居は当初、玉置といったかもしれない。このメンバーのうち土井垣、長谷 川の二人が米子中学出身なのだから、阪神ファンになるのは当然の帰結であ ろう。雑誌「野球少年」をむさぼり読み、タイガースの勝ち負けに胸躍らせ たものだ。

 今年の阪神は野村監督を迎えて、ちょっと違う。いや、一味もふた味も違 うというべきか。だが、ヤクルト時代のような野村I.D野球が浸透したわ けでもなさそうだ。野村らしい作戦は随所にみられるが、I・D野球という にはほど遠い。阪神の選手たちが、新監督から勝つためのセオリーを叩き込 まれて変身、次第に実力を発揮し始めた、といったところかもしれない。選 手たちのやる気と野村さい配がこん然となって、躍進をもたらしているよう だ。


「大阪は大阪」


 平成四年から六年まで二年間、私は大阪支社に勤めた。初めて大阪に住ん でみて、関西文化のなかで阪神タイガースの占める大きさがわかった。平成 四年、阪神の七年ぶりの優勝は間違いなさそうに思われた。ところが中村監 督率いるチームは秋、下降線をたどる。結局、ヤクルトに優勝をさらわれた。 それでも久々に大阪が沸いたのは事実。実感として大阪は東京にアンチで対 しているのではない、「大阪は大阪」―という独自の姿勢、と思う。中国や フランスが中華思想といわれるように大阪もまた、自分の文化が一番、とい う思いこみの強さがある。

どこへ行っても大阪弁はまかり通っている。日本中でこれくらい堂々と存在 を主張している方言はない。そうした文化的土壌のなかに「阪神」はがっち りポジションを占めている。選手たちもそこはよく分かっているのだろう。 勝つてお立ち台に立つ選手がいちように観客へ感謝の言葉を述べる。ファン サービスといってしまえばそれまでだが、やはり観客との一体感が言わせる ものと思う。

五月末の対ロッテ戦で九回、ホームランを浴びて二点差に詰め寄られ、勝利 投手になりながらお立ち台を忌避した西武の松坂のような話は、こと阪神に 関する限り、聞かない。阪神は常に観客と一体になっており、関西という土 地では単なるプロ野球チームにとどまらぬ"指定席"をもっているようにみえ る。

 ときどき古いビデオを見る。昭和六〇年日本シリーズ第二戦(何故かこの 試合だけ録画してある)。西武の先発はヒゲの高橋。一点リードされた四回、 真弓を一塁に置いてバースのバットが高橋の外角球をガツンと捉える。球は 左翼外野席へ。逆転で連勝だ。日本シリーズは結局、四勝ニ敗で制した。下 位低迷のころ、ひそかにこのテープを眺めて今世紀中にはもう、こんなこと はあり得ないのだろうかと、自問したものだ。しかし土井垣、別当が相次い で鬼籍に入った今年、久々の首位争いである。それにしてもリーダーが代わ るとこうも組織が変わるものか。"鮮やかな変身"が強烈にファンにアピール する。応援にも力がはいる。=山陰中央新報コラム「羅針盤」99年6月1 3日付け=