糸瓜忌

吉田 仁

  柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
  鶏頭の十四五本もありぬべし
 などの誰でも知っているような句,
  瓶にさす藤の花ぶさみじかければ
    たゝみの上にとゞかざりけり
 に代表される短歌などで広く知られる正岡子規の命日を糸瓜忌という。

 子規は一九〇二年(明治三十五)九月十九日,肺結核と腰部脊髄炎によって満三十 五歳にわずかに満たない短い生涯を閉じた。翌月十月の十四日が誕生日だった。
 ことしの糸瓜忌は台風十八号に祟られた。当日の墓参こそできなかったが,十月も 七日になって子規の墓のある寺をはじめて訪ねた。この日も雨。場所は都内北区田端 四丁目十八番地四号にある和光山興源院大龍寺,真言宗の寺である。

 JR山手線の田端駅を駒込寄りの出口から出,ゆっくり歩いて十五分ほど。閑静な 住宅地の一郭にあるが,道みち“ワンルーム・マンション建設反対!”,“田端文士 村の環境を壊すな!”などと書かれた立て看板が目についた。
 芥川龍之介や室生犀星らが住んで田端文士村と呼ばれたこの地も,人家が密集し, 日々かつての面影を失っているのだろう。

 墓地のかたすみで雨に濡れて微光を帯びた墓石には,“子規居士之墓”と簡素に刻 まれている。子規が入社した日本新聞社の社主である陸羯南の手跡だという。
 その新聞「日本」に子規は“獺祭書屋(だっさいしょおく)主人”の名で一八九二 年(明治二十五)六月二十六日から「獺祭書屋俳話」を連載した。

 文学史的にはこれが俳句革新運動の第一声とされ,ことしは近代俳句百年にあたる。
 俳句は連歌から発句が独立し,ひとつの詩形式として定着したものの,マンネリズ ムや低俗化,俳壇の宗匠たちによる営利を優先した結社の運営などによって,芸術的 には低迷におちいっていた。

 子規はこれらの傾向を,“月次(つきなみ)調”という評語をもって批判したので ある。
 月次とは月例のことで,月並とも書く。月に一度の俳句結社の会合をさすが,子規 が評語として使って以後,陳腐で新鮮さのないことの意にひろく用いられるようにな る。

 近代俳句百年のこんにち,全国の結社の数は約千二百ともいわれる。俳句界は隆盛 を誇っているようだ。門外漢のぼくにその実態はわからないが,俳句人口が多ければ 日々産み出される俳句の数もおびただしいものになるだろう。そのなかで質の高い句 が増えていくのならこれに過ぎたことはないのだが,実際はどうなのだろう。

 さて子規である。獺祭書屋主人というペンネームから,糸瓜忌は獺祭忌とも呼ばれ ている。
 獺祭の獺はカワウソだ。カワウソは捕らえた魚を食べるまえに身のまわりに並べる 習性を持つという。それを,あたかも魚を祭る姿にみたてて獺祭といい,転じて詩文 をつくるさいに多くの参考書を机辺に広げることを意味するようになった。そこで子 規は住まいを獺祭書屋と名づけ,筆名にも流用したのである。

 墓参の二日後,相変わらず降りつづく秋雨のなか,子規の住まいだった子規庵に足 を向けた。
 山手線の鴬谷駅から歩いて十分弱,財団法人子規庵保存会が管理する子規庵は,台 東区根岸二丁目五番地十一号にある。
 空襲でかつての建物は焼失し,子規の日記や原稿を収納していた土蔵だけが焼け残 った。住まいは戦後ほぼもとのままに再建されたものの,土蔵の壁面は補強したトタ ン板で表面をおおわれたまま白壁に復元されてはいない。

 公開は水曜のみで,観覧料が三百円。『子規庵の歩み』(一九八七年一月二十一日 発行・B4判・表裏二ページ)という簡単なパンフレットをもらい,係のおばさんの ていねいな説明を聞いた。ほかに四枚ひと組の写真版絵はがき(五百円)も用意され ている。

 かつての根岸は,一八三六年(天保七)に刊行された『江戸名所図会』に,
 “呉竹の根岸の里は上野の山陰にして幽趣あるが故にや都下の遊人多くはここに隠 棲す”
 と紹介されるような,風雅な趣きに満ちていたらしい。子規が住んだころも人家は まばらで,上野の山が望まれる閑寂な地域だった。

 ところがである。いまや最寄りの鴬谷駅北口一帯にはラブホテルが林立し,そのあ いだを縫って子規庵に向かうにも女性なら思わず顔を赤らめるほど。“根岸の里の侘 び住まい”どころではない。
 ただ,子規庵の草深い庭に立って目をつぶれば,それなりの感慨がある。鶏頭の花 が咲き,軒下の棚には糸瓜も数本ぶらさがっている。

 子規は病牀に横たわったままの永い年月,この庭をみつめながら『仰臥漫録』や 『墨汁一滴』,『病牀六尺』など多くの日記や随筆,俳句や短歌を産み出した。
 病苦の底で書き残した糸瓜の句がある。
  糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
  痰一斗糸瓜の水も間にあはず
  をととひの糸瓜の水も取らざりき
 いわゆる絶筆三句である。糸瓜忌の名は,ここに由来する。

 糸瓜は蔓を切って水を採り,咳止めや痰切りとして薬用される。子規にはそれも不 要になった。糸瓜の句を詠んだ翌日,子規は永遠の眠りにつく。
 降りつづく雨のなか,子規庵でみた糸瓜の淡い緑が,いまも鮮やかに目に浮かぶ。
  子規庵にぶらりとおわす糸瓜かな(仁)(『市ヶ谷通信』第2号・1991年10月20 日発行)