夏の風物詩朝,井戸に水を汲みにいくと釣瓶に朝顔の蔓が巻きついている。むしりとるのも忍 びないので隣りの井戸に水をもらいにいったのである。 ◆ 江戸時代中期の女流俳人・加賀千代女のあまりにも有名な句を,わざわざ解説する のも蛇足だった。俳句の世界では通俗的な句といわれ,あまり高い評価は与えられて いないようである。
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その俗っぽさゆえにひろく知られるようになったのか,だれにも知られるほどの佳
句だから逆に通俗的とけなされるにいたったのか,門外漢のぼくにはよくわからない
ところもある。なかなか味わいのある句である,と感じるぼくなどは,さしずめ俗物
そのものにちがいない。
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下町情緒といえば,久保田万太郎が, ◆ 朝顔市の帰りにJR山手線の鴬谷駅から歩いて五分ほどのところにある豆腐料理の老 舗“笹乃雪”に立ち寄る人も多い。ここの“あんかけ豆富”はなかなかうまいのであ る。
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“豆富”というのは誤字ではない。笹乃雪では“豆富”と看板や品書きに書いてい
るので,そのひそみにならったまでである。
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笹乃雪にほど近い鶯横丁に住んでいた正岡子規もここの豆腐が好きで,いろいろ俳
句や短歌に詠んでいる。
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朝顔市から笹乃雪,さらに羽二重団子というのはいい散歩コースだ。漱石も『吾輩
は猫である』で苦沙弥先生の書生・多々良三平君に,
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平賀源内の鰻の看板の例もあるが,子規の句や歌にしろ漱石の文章にしろ,へたな
宣伝よりよほど効果的だ。 ◆ この歌を見て,「秋の七草をただ並べただけで『万葉集』に収録されたのだな」と いう妙な感慨をまず抱くなんて,ぼくが俗物であるなによりの証拠だろう。つぎにぼ くが感じたのは“秋の”七草に朝貌(朝顔)が入っている不思議さである。
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万葉時代に朝顔といえば,いまの桔梗をさしたという説がある。だから,この歌だ
けで朝顔は秋の花だとはいえない。朝顔市だって七月ではないか。 ◆ 意外といえば,西瓜も秋の部に入っている。深緑に黒く沈んだ縞,真っぷたつに切 ればみずみずしく赤い果肉が目の前いっぱいにひろがる西瓜は,ぼくのイメージのな かではまさに真夏そのもの。これが秋では,どうも俗っぽいイメージの展開に支障を きたしてしまうようだ。 ◆ そういえば,西瓜が熟して本来の甘さになるのは旧のお盆過ぎ,新暦では少なくと も八月の末まで畑で寝かせておいたほうがいいという話を,だいぶ以前に聞いたこと がある。本来,西瓜は秋のものなのかもしれない。 ◆ 現実はしかし,それどころではない。促成栽培で早め早めにとつくり急ぎ,五月六 日前後にくる立夏を前にして店頭に出まわっている。ほんとうに旬が曖昧になってし まった。季節感が失われて残念がるほどの純真さは持ち合わせていないものの,とき どき戸惑ってしまうのはたしかである。 ◆ この一文に冠したタイトルも,せめて「“夏”の風物詩」と含みをもたせたかたち に変えなければならないようだ。(日本能率協会マネジメントセンター『マネジメン ト21』1992年8月号)
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