子規と漱石,秋ふたつ梨むくや甘き雫の刃を垂るゝ 一九〇二年(明治三十五)の秋九月十九日,結核のため三十五歳で死んだ正岡子規 の作である。旬を得た果肉のさわやかな甘味,芳香が口いっぱいに満ちてくるように, みずみずしい。
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子規にとって果物は,単に好物という以上の存在だった。日記体の随筆『松蘿玉液』
に子規は書いている。 ◆ 果物はかつて水菓子と呼ばれた。子規は“菓物”と書いている。この“菓物”が病 魔にとりつかれた子規にとって生き延びるためのエネルギー源だったのである。死の 前年に書き起こされた病床録『仰臥漫録』にも,盛んに梨そのほかの果物を食べた事 実が記録されている。
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行く我にとゞまる汝(なれ)に秋二つ ◆ 八八年に最初の喀血をみた後の子規こと正岡昇は,八九年に手書きの文集『七草集』 を後の漱石,夏目金之助に呈している。夏目もその評を書き送り,末尾にはじめて漱 石と署名した。漱石とは,もともと子規の使っていた号のひとつで,それを譲ったの だという説もある。
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その年五月九日,正岡はふたたび喀血して肺病と診断される。翌十日,
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しかし,子規という号ほど肺結核の文学者にふさわしいものはない。ホトトギスは
鳴くときに口中の紅色が鮮やかに現われ,鳴き声も血を吐いて苦しんでいるかのよう
に聞きなされるという。 ◆ 漱石が子規の高弟・高浜虚子の主宰する俳誌『ホトトギス』に「吾輩は猫である」 を発表し,小説家として華々しくデビューするのは一九〇五年(明治三十八)のこと。 それまでは俳人漱石だったといっていい。
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一八九五年(明治二十八),子規は従軍記者として日清戦争におもむく。その無理
が祟って帰路の船中で喀血し,神戸に上陸。生死の境いをさまよったのち,八月末に
松山へ帰省する。
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その愚陀仏庵を辞して帰京するさいに子規の詠んだのが,前掲の“行く我にとゞま
る汝に秋二つ”という句なのである。
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“子規は果物が大変好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大きな樽
柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分などは到底子規の真似は出来
ない。(中略)三四郎は笑って聞いていた。けれども子規の話だけには興味がある様
な気がした。”
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漱石は“正岡の食い意地”とくちさがない。けれど,子規の生命を支えたものの重
要なひとつにその健啖ぶりがあり,また咀嚼の丹念さがあった。 ◆ “梨むくや甘き雫の刃を垂るゝ”という何気ない句からも,その事実は充分にうか がい知ることができるのである。(日本能率協会マネジメントセンター『マネジメン ト21』1992年9月号)
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