遅れた万太郎忌

吉田 仁

  あぢさゐの色には遠し傘雨の忌
 鈴木真砂女の句で,“傘雨の忌”とは久保田万太郎の命日である。万太郎は句作の さいに雅号をほとんど使わず本名で通しているが,その初期には傘雨や暮雨と号して いる。

 一九六三年(昭和三十八)五月六日に七十三歳で万太郎は死んだ。市ヶ谷の梅原龍 三郎邸でおこなわれた美食会で,どうしたことか,ふだんは絶対に口にすることのな かった生の赤貝を喉に詰まらせ,窒息して息絶えた。魔が差したとしか思えない。  その命日には遅れてしまったが,五月のうちに墓参りをすませようと,ぼくは初夏 の街に出た。万太郎は好きな俳人のひとりなのである。

 まず足を向けたのは湯島天神。一九四五年(昭和二十)の五月二十四日に空襲で焼 け出された万太郎は,敗戦後すぐに鎌倉の材木座に住まいを移していたが,一九五五 年(昭和三十)六月,文京区湯島天神町二丁目十番地に引っ越している。

 上野で山手線を降り,不忍池から歩いて十分もあれば湯島天神下に着く。強い日差 しのなか,男坂の階段をのぼりきると,右手にすぐ女坂が寄り添っている。その男坂 と女坂とに挟まれた三角形の一郭に,一年半ほどの短いあいだではあったけれど万太 郎の住んだ家が,いまも残っている。

  みじか夜や焼けぬせうがの惣二階
 “せうが”というのは証拠の江戸訛りだという。
 この句には“湯島天神町といふところ,震災にも戦災にも逢はず,古き東京のおも かげをとゞむ”と前書きがある。木造瓦葺き惣二階建ての古い家は,丈高いマンショ ンに囲繞され,ひっそりたたずんでいる。

 境内のベンチに腰をかけて汗を拭いていると,トントンと金槌を打つ音やらなにや ら,騒々しくなってくる。まもなく始まる例大祭の準備が始まったらしい。
 一服して腰をあげ,こんどは女坂を降りて狭い露地を玄関にまわってみた。表札に 久保田君(きみ)という名前が掲げられている。万太郎の二度目の夫人だった人であ る。

  さみだれや門を構へず直ぐ格子
 という句そのままだから,あまり立ち止まって見ているのもはばかられる。すっと 露地を通り抜け,ふたたび男坂をのぼって切り通しの坂に出た。

 湯島天神の切通坂へ出る門を潜ってすぐ左手には,石川啄木の歌碑がある。
  二晩おきに,
  夜の一時頃に切通の坂を上りしも――
  勤めなればかな。
 本郷弓町に間借りしていた啄木は,本郷三丁目から市電に乗って上野広小路に出, そこで乗り換えて,前稿「銀座の柳」で書いたように京橋の滝山町にあった東京朝日 新聞社に通った。二晩おきに夜勤もあり,終電後に歩いてこの切通坂をのぼることも 多かったのだろう。

 湯島から本郷三丁目の交叉点へ向かうこの坂道は,春日通りである。途中には,通 りの名の由来となった春日局の墓所である麟祥院がある。森鴎外の「雁」や漱石の 「野分」にも登場するので,なにか懐かしい。枳殻寺(からたちでら)という愛称で 親しまれる落ちついた寺だ。

 本郷三丁目の交叉点の角には,化粧品や小間物の老舗“兼康”がある。この店も漱 石の「三四郎」に出てくるし,また,
  本郷もかねやすまでは江戸の内
 という川柳によっても知られている。
 いろいろ寄り道をしているあいだに紙幅が少なくなってしまった。肝心の万太郎の 墓参というより文学散歩の記になってしまいそうだが,ついでだから,もう少し寄り 道をしよう。

 本郷三丁目の交叉点を春日通りから本郷通りに右折し,万太郎の墓がある喜福寺の 手前,つまり大学の赤門を過ぎた斜向かいに,樋口一葉ゆかりの法真寺がある。
 一葉の四歳から六歳まで,一家が零落するまえに住んだところがこの法真寺の隣で, のちに日記のなかにこの家を“桜木の宿”と書いて懐かしんでいる。

 現在,寺には一葉資料館が設置されているが,この日は運悪く休みだった。あまり の寄り道に,ひょっとしたら万太郎の霊がヘソを曲げたのかもしれない。
 お目当ての万太郎の墓は,喜福寺の墓所のかたすみに先祖代々の墓と並んであった。

 台座の上に四角や丸,屋根型の黒御影を積み重ねた,悪くいえば田楽のようなかた ちの墓石には,細くてたよりない自筆で“久保田万太郎之墓”と刻まれている。戒名 は上を略して傘雨大居士。
 傘雨忌には遅れたうえ,きょうは雨傘とはまったく無縁な上天気だった。しかも寄 り道ばかり……ぼくは,なんとなくお詫びするような気持ちで手を合わせた。
 とにかく,これでやっと万太郎の墓に合掌することができたぼくは,こころよい疲 労感に包まれながら本郷通りを御茶ノ水へ向けて,ふたたび歩き出した。(『市ヶ谷 発』第21号・1993年6月1日発行)