誤植の饗宴

吉田 仁

プロローグ――万太郎の名句


久保田万太郎に,こんな俳句がある。
また一つ誤植みつけぬみかん剥く

中央公論社版『久保田万太郎全句集』という本を眺めていたら突然目に飛び込んでき て驚いた。“誤植”という言葉を詠い込んだ俳句とは珍しい。
私事にわたって恐縮だが,ぼくは編集・校正をナリワイとしている。いってみれば誤 植を出さないよう日々努めている人間である。だから,誤植そのものに神経過敏に なっているのは当然のこと,誤植という単語にも活字のうえでお目にかかるとドキッ としてしまう。万太郎の誤植という言葉を詠い込んだ俳句に思わずたじろいだのも, ひとつにそれが珍しいばかりではなく,そういう個人的な事情があったからである。

万太郎のこの句は“熱海にて文藝春秋社忘年会の砌(みぎり),志あるものうちより て句座をひらく”と前書きがある七句のうちの一句で,1958年(昭33)の作。『流寓 抄以後』という句集に収められた。
万太郎といえば,
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
という絶唱が広く知られているが,この誤植の句もそれに劣らぬ――いや,ちょっと は落ちるかな? しかし,それでもこれは,いわば“隠れた名句”であるなと,近ご ろ誤植に打ち込んでいる?ぼくなどは,つい嬉しくなってしまうのである。

万太郎氏,旅館のコタツにでも入って本を読んでいたのだろう。盆にはだいだい色も 鮮やかな蜜柑が盛ってあって,ひょいと誤植をみつけたのをしおに,ひとつ皮を剥い たのである。けっこう誤植が多かったにちがいない,“また一つ”という初句がよく 利いている。誤植に対する諦めの果ての,なにやら泰然自若とした,飄々たる雰囲気 さえ漂ってくるかのようだ。しみじみとした味わいに満ちている。俳句は二度読むの が作法だが,それでなくとも,もう一度口ずさみたくなってしまう。
また一つ誤植みつけぬみかん剥く

さて,久保田万太郎のように,誤植をパン種に一句ひねりだすような余裕をものにす るには,多くの人生経験と深い心の修練を必要とする。誤植という現象は本来,物書 き・編集者・校正者など本の製作陣ばかりでなく,読むほうにとっても本来は迷惑こ のうえもないオジャマムシである。誤植など,ないに越したことはない。いや,誤植 などあってはならず,ないのが当然である――と読者は思う。本をつくるがわだっ て,そう思っている。ところが,どんなに注意しても本ができあがってみると必ず出 てくる。頭を抱えてしまい,ときには厭世自殺をしたくなるほど製作者を落ち込ませ る現象,それが誤植である。

製作にかかわる立場を離れていえば,近頃は,“つまらない誤植”に対しては超然た る態度で接するようになった。万太郎の域に達していないのはもちろんだけれど, “ああ,またやってるな”と横目で軽くいなしている。かわりに,“つまらなくない 誤植”に対して興味を持つようになった。

“つまらなくない誤植”とはなにか?
簡単にいえば,花のヒナゲシが“ヒゲナシ”と活字が入れ替わっている,あるいは東 海道五十三次の宿駅のひとつである鞠子の名物とろゝ汁が“とゝろ汁”と入れ替わ り,宮崎駿監督のアニメ映画『となりのトトロ』を思いあわして,ちょっと失笑す る。そんなたぐいの誤植。これだって,つまらないといってしまえばそれまでの,単 純な誤植だが,友人との談笑のタネにはなる。

さらにいえば,ひとつの誤植という現象を梃子にして人間界の営みの一面が浮かび上 がってくるかもしれないケース。この例はいまここで簡単には説明できないが,「誤 植の饗宴」と銘打ったこの雑文は,そんな誤植にまつわる逸話を探してみたいと思い ついたのがきっかけになっている。

本に誤植はつきもの。だったら,単にやっかいもの扱いせず,も少し違った角度から 眺めてみたいというお気楽な発想でもある。“誤植をおもしろがるなど不謹慎な!” とめくじら立てずに,かるい気持ちでつきあっていただけるなら幸いである。ただ, 書く立場として次のことだけは念じている。
願わくば無粋な誤植のなからんことを!

 


鈴木大拙,禅の研究家変じて


最初から心苦しい展開になる。古澤襄さんが主宰するカジカ文庫にこの「誤植の饗 宴」という雑文を入れていただくにあたって,ひとことお詫びを述べなければならな い。

ほかでもない,襄さんの著書『沢内農民の興亡』の誤植についてである。“印刷物の この世にあるかぎり誤植はついてまわる”とはいうものの,『沢内農民の興亡』の編 集・校正を担当した者として,それをお詫びせず,他人事のように「誤植の饗宴」と 題したこのエッセイの筆を進めるとしたら厚顔無恥というもの。話の順序として,こ こはどうしても端折ることはできないので,以下,深々と頭を下げつつ――

  『沢内農民の興亡』に古澤家菩提寺である玉泉寺の第十九世琢神道器(たくしんどう き)という和尚さんの名が二度出てきます。20頁・46 頁です。これは啄禅道器(た くぜんどうき)が正しいので,本をお持ちの方は,ぜひ訂正をお願いするとともに, 深くお詫びいたします。

  神と禅とは見誤りやすいところから起きた誤植である。しかし,“曹洞宗,禅寺の住 職に‘神’の字がつくのはおかしい”と本ができ上がってから指摘され,ナルホドと 納得し,ウ〜ンと頭を抱えた。寺の和尚の名に神の字がつくのはおかしい――編集者 ・校正者としてその点にまったく思いがいたらなかったのは未熟というしかなく,責 任者として著者ならびに読者に改めてお詫びを申し上げたい。

同時に,形の類似した漢字,しかも固有名詞の間違いを見落とす率は高いという校正 上の常識を改めて肝に銘じたしだいである。

禅で思い出した。気分転換に笑い話をひとつ。
世界的に知られた仏教哲学者,禅の研究家に鈴木大拙がいる。彼は,ある本の著者紹 介のなかで,とんでもないシロモノの研究家にされてしまったという話がある。いわ く――“褌の研究家”。

並べてみると,禅と褌は字の形がそっくりだ。もちろん褌はフンドシ。漢字を読む能 力が低下しているといわれる現在では読めない人が多いかもしれない。漢字を読めな いと見過ごしてしまう,読めないとおもしろくない誤植,というものもある。


誤植を歌った短歌


石川啄木は『東京朝日新聞』の校正係として死んだ。1912年(明45)4月13日のこと である。27歳の短い生涯を閉じた2ヶ月ほどのちに東雲堂書店から第2歌集『悲しき 玩具』が刊行された。そのなかに,誤植を歌った短歌がある。
みすぼらしき郷里(くに)の新聞ひろげつつ,
誤植ひろへり。
今朝のかなしみ。

啄木は1909年(明42)3月1日から『東京朝日新聞』の校正に従事するかたわら,新 渡戸仙岳が主筆をつとめる郷土の代表紙『岩手日報』に「胃弱通信」(同年5月26 日〜6月2日),「百回通信」(同年10月6日から28回)そのほかの原稿を送ってい る。

新渡戸仙岳とは啄木が盛岡中学に在学していたときに校長を務めた人である。その恩 師がつくっている新聞を読みながら誤植をいくつか目にしたのだろう。校正などをナ リワイにしていると,なにを読んでも目は誤植を拾ってしまう。悲しき習性といって いい。

啄木の“今朝のかなしみ”とはしかし,ささいな誤植を悲しんでいるのだろうか。
啄木の給料は当初25円。夜勤手当が,ひと晩1円ついた。これを月5円としたら,月 収30円。中学中退の学歴しかないものを採用するにしては破格の待遇だった。
月に三十円もあれば,田舎にては,
楽に暮せると――
ひよつと思へる。

渋民小学校で代用教員をつとめたときの月給が8円だったことを考えれば,物価の高 い東京でも30円あれば切り詰めてやっていけないことはないはずだった。朝日在職10 年の校正長加藤四郎でさえ基本給は33円である。

しかし啄木には借金があった。借金の多くは踏み倒しているが,金田一京助が保証人 になった下宿屋への支払いは欠かせない。のちにアイヌ語・アイヌ文学の研究や辞書 編纂の仕事で知られる言語学者金田一京助は盛岡中学の先輩である。創刊当初の文芸 誌『明星』などを啄木に貸し,ロマンチシズムを鼓吹して文学的な影響を与えた。経 済的にも多大な援助を惜しまず,函館の宮崎郁雨とともに啄木の生涯を支えた恩人で ある。

恩人といえばもうひとり,佐藤北江もそうである。本名真一。号の北江は,ふるさと 盛岡を流れる北上川にちなむ。『東京朝日新聞』生え抜きの編集長として北江は,一 面識もなかった啄木を破格の待遇で拾い上げたばかりでなく,毎月給料の前借りを申 し出る啄木に自腹を切って貸している。そのうえ欠勤のつづく啄木をかばい,病が重 くなると多忙な勤務のなかで社の有志に諮っては醵金を集め,病床を見舞っている。

啄木は給料が入って前借り・借金を返す。貧乏にもかかわらず浪費癖があったから手 元にほとんど残らない。長男真一の名は北江の本名を貰ったものだが,その長男も生 後わずか24日で急逝し,第1歌集『一握の砂』の稿料は出産・薬餌・葬儀費用に消え た。母カツ・妻節子も病気で薬代がかかる。啄木自身,肺結核が重くなり,母のあと を追ってまもなく死ぬ運命にあった。

となると,“みすぼらしき郷里(くに)の新聞ひろげつつ,/誤植ひろへり。/今朝 のかなしみ。”という歌に込められた“かなしみ”とは,単にぶざまな誤植を目にし た悲しみなどではない。みずからの文学的才能を貧困と病と食うための仕事に埋もれ させなければならなかった,ヒシヒシとむしばまれるような命の悲しみ――そういっ た悲哀を,“みすぼらしき郷里の新聞”や“誤植”に仮託して歌ったものにちがいな い。


誤植に泣く啄木


啄木が肺結核で死んだのは1912年(明45)4月13日である。
翌日の14日に火葬され,『東京朝日新聞』は「石川啄木氏逝く」という見出しのもと 「薄命なる青年詩人」として長文の記事を掲載した。15日の葬儀をとりしきったのは 佐藤北江編集長。同紙は16日に啄木の葬儀を報じ,17日には松崎天民記者の短歌「弔 石川啄木君」,啄木短歌の初期に多大な影響を与えた与謝野晶子の短歌「啄木氏を悼 む」を掲載している。

啄木は校正係として入社したのち,校正のかたわら社会部長の渋川玄耳に抜擢されて 朝日歌壇の選者になった。手当が月8円ついた。大阪朝日新聞東京出張員として社の 先輩だった二葉亭四迷がロシアで肺結核に倒れて帰国の途上ベンガル湾上で客死する と,主筆の池辺三山に二葉亭全集の校正・編集・刊行事務も任された。基本給も3円 上がって28円に増えた。だから,単なる“一介の校正者”としての扱いではなかっ た。病気で,ほとんど欠勤していたとはいえ,啄木への信頼や期待は厚かったのであ る。
おれが若しこの新聞の主筆ならば,
やらむ――と思ひし
いろいろの事!
と歌うほど,新聞編集にかかわる啄木の自負も大きかった。けれども経済的な柱に なっているのはなにかとみれば,“一介の校正者”としての仕事である。才能への自 負と現実!

啄木の校正の技術はどれほどだったか,それを伝える直接の資料にめぐりあってはい ない。ただ,『二葉亭全集』の校正も任された点を考えれば一流だったにちがいな い。
その啄木も誤植には最後の最後まで泣かされた。太田愛人『石川啄木と朝日新聞―― 編集長佐藤北江をめぐる人々』という本のなかでもこのエピソードは紹介されてい る。
『東京朝日新聞』が掲載した1912年(明45)4月14日の死亡記事のなかに,啄木の小 説『鳥影』の名が出てくる。チョウエイと読む。その『鳥影』が“島影”と誤植され たうえ,“しまかげ”と誤ったルビが振られた。これは形の紛らわしい漢字の見落と しなのか,あるいは記者が“島影”と思い込んで書いたのを校正係も見落としたの か。

ルビは活字を組むさいに現場の文選・植字工が振ったのかもしれないが,まず“島 影”ともっともらしく誰かが誤ったところに,この誤植が残った第1因があった。つ ぎに校閲で事実を精確に調べなかったのが第2因である。

“みすぼらしき郷里の新聞”だけでなく,東京の一流紙もこんな誤植を犯す。あの世 で記事を目にした啄木の“今朝の悲しみ”は深まっただろうか。それとも苦笑するだ けだったろうか。
蛇足を付け加えるなら,啄木の死亡記事は朝日文庫『朝日新聞の記事にみる追悼録 〔明治〕』に採録されているので,興味のある方は簡単に見ることができる。“紙面 の明らかな誤植は編集部で改めました。”と断わってある言葉に偽りなく,“島影” は正されている。ルビはない。
さすがは朝日新聞社の校閲部というべきである。


誤植を反省する材料


『東京朝日新聞』は,こんにちの『朝日新聞』である。もともとは1879年(明12)に 大阪で創刊された。その大阪本社の校閲部が編者となった『あなたも校正者』という 本がある。つい最近の,1988年(昭63)に発行された。
誤植に泣かないためには,こういう校正の手引き書にも目を通さなければいけない。 なかに“誤植を反省する材料”として失敗談がいろいろと載っていて参考になる。ふ たつほど紹介しよう。
・ある県の警察本部広報官の署名入りで“警察といたしましては,今後も社会主義の 実現のために的確,公正な広報活動に努めることとしておりますので云々”という記 事が紙面に出たことがあるそうだ。
日本の警察が“社会主義の実現のために”などとは口が裂けても言うはずがない。こ れは“社会正義”の誤植。主と正,字の形は似ていても意味するところは大違いであ る。

・印刷物の誤植ではないが,こんな例もある。京都の嵐山に,日中友好のシンボルと して建てられた周恩来の記念詩碑というのがあって,その副碑に“周思来”と刻んで あった。碑ができてから9年間,誰も気づかずにいて新聞で話題になったそうであ る。


嗚呼,朝日新聞校閲部!


『あなたも校正者』という本をとりあげたのには,なかに紹介されてある失敗談を引 用したかったというより,じつはもっと興味深い事実を伝えたかったからである。
日本を代表する『朝日新聞』の大阪本社校閲部が編んだこの校正の手引き書,なんと 14ヶ所にもおよぶ正誤表がついている。そして,つぎの一文が添えられている。
“校正の入門書ですので,とりわけ校正には注意を払ったにもかかわらず,下記のよ うな誤りがありました。謹んでおわび申し上げます。”
皮肉ではなく,こういう手引き書こそ校正の入門書としては適切かもしれない。“校 正畏るべし”という出版界の名言を,身を挺して教えてくれているのだから。


漱石の正誤表


1冊の本のなかに誤植が14ヶ所あろうと,さしたる問題ではない――と言い捨ててみ たい。校正者・編集者としての立場を顧みずに言えば,である。誤植が大事を引き起 こす例はある。しかし,人為にミスはつきもの。誤植など人間の行ないのなかで罪の 軽いほうではないか……

もちろん誤植はないにかぎる。誤植がなくて当たり前,あったら文句が出るのが出版 である。黙っていれば読者が気づかない誤植もあるというのに,誠意をもって洗いざ らいの正誤表をつければ,“なんだ,こんな誤植がある本を誰が買うものか”とな る。印刷・添付する費用だってバカにならない。

啄木が『東京朝日新聞』の校正係になる2年前,1907年(明40)3月に主筆の池辺三 山に乞われて入社したのが漱石こと夏目金之助である。
啄木と違って漱石の入社は華々しかった。月給に端的に現われている。初任給(基本 給)は啄木25円,漱石200円。盛岡中学中退,渋民小学校代用教員,北海道の地方新 聞を転々したあげくに上京して新聞社に拾い上げられた売れない詩人と,かたや東大 卒,松山中学教師を経て熊本の五高在職中に文部省のイギリス留学生となり,帰国し て一高教授・東大講師,さらに用意された東大教授の椅子をなげうって迎えられた売 れっ子作家との差は歴然としている。

その漱石,東朝入社2ヶ月後の1907年5月に『文学論』を大倉書店から出版した。34 字詰め・14行,700ページにおよぶ大冊である。東大で講師を務めたさいの講義録に 手を入れたものだから,内容が硬いのは仕方がない。国民的文豪漱石の著作中,最も 読まれることの少ない本として知られる。

漱石夫人の鏡子は,のちに『漱石の思ひ出』という本のなかでこんな述懐をしてい る。
“大学で講義した「文学論」を纏めて大倉書店から出版するというので,自分でそれ にかかずらっている暇もない。中川芳太郎さんを煩わして校正やら何やら一切合財お 任せして居たようでした”。大阪朝日新聞本社への顔見せも兼ねた関西旅行から帰っ てきて,“本になっているのを見ると,どうしたものか大変誤植が多い。自分の予期 に反したものでありましょうか,こんな間違いだらけな不満足な本は,自分の名に よって世間へ出すことはならない,つまり学者的良心が許さない。早速みんな集めて 来て,庭先きで焼いて了うといった剣幕でしたが,いかんせん其時すでに市へ出た後 なのでどうすることも出来ませんようでした。後でそれでは気がすまなかったと見え て,正誤表を出して方々へ配ったりいたしました。”

原文は旧仮名遣いだが,新仮名に直した。“中川芳太郎さんを煩わして校正やら何や ら一切合財お任せして居た”と校正を担当した人の名を挙げるのは,場合が場合だけ に可哀想だ。鏡子夫人も人が悪い。


寺田寅彦の名言


半藤一利の『漱石先生ぞな,もし』という快著みると,『文学論』の正誤表というの は小さな活字で2段組み16ページにおよぶものだったと書いてある。
今度出た岩波版『漱石全集』第14巻の後記によれば,『文学論』初版の正誤表は中川 芳太郎の名によって出され,1907年(明40)6月20日発行の第2刷に添えられた。そ して同年7月25日発行の第3刷で本文が訂正された,ということであるらしい。

ところで,この後記には正誤表は“全八頁”と書いてあって,半藤一利のいう16ペー ジと食い違っている。現物を見たことのないぼくにはどちらが正しいのか判断に苦し む。
正誤表が2種類つくられたのではないと仮定すると,半藤のいう16ページと岩波編集 部のいう8ページという異同は,どちらかを誤植とするより,どちらかの事実誤認と いったほうが適切な感がある。

“浜の真砂と本の誤植は尽きないものである”
と半藤は誤植という現象に対して突き放した見方をしているが,誤植と受け取られて いるもののなかには著者の誤記がそのまま残ってしまったものの多いことも頭の隅に 入れておいていい。もちろん半藤の記述が間違いだというのではない。原稿が間違っ ている場合,校正で訂正できないことは多いということをいいたいだけである。

しかし,そんなシチメンドクサイ話はどうでもいい。ここでは半藤の著書に紹介され ている,寺田寅彦のうがった言葉を引用したかった。

『文学論』の誤植の多さには,“さすがの漱石も怒るというよりあきれ,かつ心底か らガッカリした。家族はもちろん弟子も,なんといっていいか思いあぐねているなか で,寺田寅彦だけがいともあっさりといった。「そりゃまあ,十六ページの正誤表は 前代未聞のことかもしれませんが,行き届いた正誤表がついているという意味から は,著者の良心的なことを示すわけです。そう自信をもっていい」”

漱石の弟子というより,年少の友人といった趣きのある寺田寅彦の発した“行き届い た正誤表”という表現は心憎い。


漱石「先生」


鏡子夫人の『漱石の思ひ出』という本は,夫人の口述を,長女筆子と結婚した松岡譲 がまとめたもの。漱石と鏡子夫人の人柄が彷彿とするエピソードがいっぱいで,おも しろい読み物になっている。初版は改造社の出版で,のち岩波書店から普及版が刊行 された。

ぼくが持っているのは岩波版の12刷だが,誤植が多い。例えば,引きつけを起こすと いう意味の“ひきつける”が“ひけつきる”となっている。そのほか単純な誤植ばか りで,ちょっと注意すれば気づくはずのものだ。総ルビの誤植には目を覆いたいほど だ。これも単純な誤植ばかりだが,“当選”に“らくせん”とルビが振ってあるのは どうしたことか。こういう点では出版界の名門も昔はいい加減な本造りをしていた面 もあったなと思う。初刷は1929年(昭4)である。

話のタネになるような誤植はないかと思って読み返してみたが,特にこれといって目 を引くものもないうちに本文を読みきってしまった。なにか物足りない。これだけ誤 植があるなら,もっとおもしろい誤植を出してほしかった……?

松岡譲の「編録者の言葉」が最後についていて,その末尾に“年譜作製に松生幸雄校 正に石原健生両君の力を多分にかり得た事を,ここに感謝する次第であります。”と ある。文豪漱石の夫人の本だから後世に残る。名前を挙げてもらって光栄のいたりで ある。しかし,あとで見落としが多かったとわかって石原健生という人も困惑したに ちがいない。同情しつつ巻を閉じようとしたら,ありました,最後の最後に奇妙な誤 植が。

12刷という版は,岩波書店の創業80年記念“単行本リクエスト復刊”の一冊。本文は 前の刷本そのままのオフセット印刷による復刻だが,奥付と巻末に載っている広告は 復刻時点のもの。その巻末広告に当の『漱石の思ひ出』が載っているのも変なものだ が,あわせて松岡譲の『漱石先生』ほか4冊の復刻広告も並べて掲げられているか ら,記念復刊にあたって漱石関係の本は2冊復刻しましたということを告知している のである。

ところが,よく見ると鏡子夫人の『漱石の思ひ出』というタイトルが『漱石先生の思 ひ出』になっている。思うに巻末広告の最初に掲げられている松岡譲の『漱石先生』 に引きずられてしまったのかもしれない。あるいは『こゝろ』以来,漱石本の売上に お世話になりっぱなしの岩波書店の深層心理がなせる業かと,ついうがった見方もし てみたくなるような誤植である。

念のため,その松岡譲著『漱石先生』という一本も買い求めて巻末をのぞいてみた。 案の定,こちらにも2冊が並べて広告してある。鏡子夫人の本のタイトルは,当然の ごとく『漱石先生の思ひ出』と誤っている。