ふるさと喪失に思う


870401



東京で暮らして二十七年になる。
二十八歳で上京したから、田舎と都会暮らしがほぼ半々になろうとしている。老後の 心配が胸をよぎるようになった。

郷里の村で宅地用地の分譲を始めると聞いたので、村の友人にようすを訊いてみた。
「地価は坪五万円ぐらいだけど、ここで暮らすのも考えもんだよ。あんたが居た 頃とちがって、村の生活意識は都会並だと思った方がいい。みんな勤めを持っている から、交流が少なくて、自分勝手になっちゃった。不便なだけ侘びしさが増してね・ ・・淋しいもんよ」

予想はしていたが、友人の言葉はショックだった。村で暮すには、車が無ければ一日 も過ごせないとも言われた。私は運転が出来ないし車が嫌いだ。これでは町場以外に 住めそうもない。と言って、コンクリート長屋で晩年を送るのも侘びしすぎる。

私が暮す江東区では、新都市計画とやらで、すぐ近くに高層ビル群が建つそうであ る。日常生活にどんな影響が出るのか見当もつかない。どちらを向いても溜息の出る 話ばかり。人間らしく生きるにはどこへ行けばいいのか。私の心の中で”ふるさと” という言葉が、行き場を失くして悲鳴をあげている。

都会へ出て来た人間にとって、郷里は心のよりどころである。私は上京以来、文学に 関わるという形で、ずっと「農村」にこだわり続けてきた。思考の根っこはいつもム ラにあった。

私が郷里に帰るのは、年に一、二度それも所用のための慌ただしい訪れである。その たびに肌身で感じる農村問題に一喜一憂し、時には失望のあまり、ふるさとは、遠き にありて想うもの・・・と、いう心境になったこともある。ここ一、二年はとくに状 況がきびしくて、思い入れや同情なんか、現実の前ではおこがましとさえ感じられ た。

私の郷里の村も過疎化と高齢化の中で、必死に生き残りの途を求めてきた。
食管改革、農協批判の中心である「コメ」問題は、その奥をさぐれば弱小農家の切り 捨てと、農村の解体だといわれている。世界経済の大波の中で、必然的な変革を迫ら れているわけで、そのゆく末を想えば事の重大さに茫然となる。農村の解体とはどう いうことか。

新聞の特集記事の中に、「野菜畑はビルの中」という話が載った。二十一世紀の想像 図だが、すでに試験販売が始まっているという。市場経済の一部門となった農業は、 ハイテク企業の思いのまま・・・。

農村が消えれば都市も変質する。世界経済の圧力で構造転換を迫られた東京は、巨大 な国際情報都市となり、下町は消えてビルの林立するSFの世界・・・。

笑いごとではない。日常のこの息苦しさは、まさに事態が進行しつつある証ではない か。「ふるさと」が死語になる日の来ないことを願うのみである。
 

 
杜父魚文庫