江戸時代の生活彷彿 自然と生命の根源に目を 870614
◆
最近は江戸ブームだという。そのせいではあるまいが、私の住む江東区にも「深
川江戸資料館」が誕生した。オープンしたのは去年(1986年)の十一月だが、
予想以上の人気らしい。テレビで紹介されたそうだが私は見なかった。江戸ブー
ムというのが、懐古趣味めいていて抵抗があり、ブームに乗せられたくない思い
から無関心でいた。
◆
ところが先日、あるきっかけから入館する機会があり、一度で資料館の虜になって
しまった。自宅から歩いても行ける近さから、数日後にはまた出かけてゆっくり見
直してきた。江戸ブームはともかく、「深川江戸資料館」になぜ人が惹かれるのか、
それを考えるだけでも面白い。
◆
この資料館のユニークさは、「情景再現・生活再現展示」という新しい展示技術を
駆使した点にあるようだ。入館者は一歩踏み込んだ途端、百五十年前の江戸の下町
に放り出された気分になる。地下一階から地上二階、三層にわたる高い吹き抜けの
大空間に再現された町は、深川佐賀町下之橋の橋際を、沽券図によって構成復元し
たものという。
◆
時代は天保の終わりごろで、建物は、建てられてから三十五年ぐらいの古びたもの。
大川の水を引いた掘割には猪牙船が浮かび、堀端には船宿、脇の広場には火の見櫓
がそびえ、足下の広場には水茶屋がある。
◆
大通りには白壁の土蔵やお店、米屋や八百屋が軒を接し、小路を入ればドブ板をは
さんで割り長屋が並んでいる。どの家にも当時の家具調度が配されていて、見学者
は手に取るように眺められるのが人気の所以とか。
◆
「ああ、この桶、流し、へっつい・・・懐かしいねえ・・・付け木や火吹き竹もあ
るよ」
◆
溜息をつくのは五十代以上の年配者たちである。子供や若者にとっては、映画やテ
レビの世界だろうが、みんな熱心に覗きこんでいる。タイプ別の長屋には、それぞ
れ職人や船頭、三味線の師匠などが住んでいて、部屋に佇んでいると、彼らの話し
声が聞こえるようだ。すすけた壁や釘に吊した半てん、竹行李や枕びょうぶ。土間
の水ガメ、七輪に火消しツボ・・・。大方の家具や勝手道具には、見なれた懐かし
さがわく。
◆
じっと見ていると、百五十年前ではなく、私の育った戦前の農家の生活が彷彿とし
てきて、胸が熱くなる。昭和十年代の山村は、まだ江戸時代の続きだったのかと改
めて考えさせられた。思えば私たち日本人は、戦後の四十余年間、そこからの脱出
を目指して、必死で働いてきたわけである。そして現在の物があふれ返る飽食の時
代を招き寄せた。
◆
悔いのないはずなのに、現代の日常は先が見えなくて、不安で虚しい。人間の心は
荒れ、拝金主義が社会を蝕んでいく。この資料館に佇んでいると、不思議な人肌の
温もりと安らぎが戻って来るのはなぜだろう。
◆
二度目に行って気がついた。ここにはプラスチックに代表される合成物質が無いの
だった。当然のことに人間が管理するコンピューターも無い。建物や道具はみんな
自然の産物である。鉄材や木、竹や動植物の皮や繊維は、寿命がくれば壊れて朽ち
る。燃えても毒ガスの出る心配はない。生きものの営みと同じに、消滅と再生をく
り返すところに、人間は救いと安らぎを覚えるのではないだろうか。ある生物学者
の説によれば、現在のバイオテクノロジーの粋を集めても、大腸菌一匹作れないの
だと言う。生命の生かされる自然の仕組みは不思議に満ちている。
◆
大地にものを育てる農業は、自然の意志に根差しているから尊いのである。科学技
術を過信して、ビルの中で米や野菜を作るようにでもなったら、自然体系は狂い出
すだろう。
◆
日常生活の息苦しさに追い立てられた人々が、資料館の江戸時代に安らぎを覚える
としたら皮肉である。都市生活者も農村の人も、今こそ胆に据えて自然と生命の根
源に目を向ける時ではないだろうか。
|