江戸時代の生活彷彿 自然と生命の根源に目を


870614



最近は江戸ブームだという。そのせいではあるまいが、私の住む江東区にも「深 川江戸資料館」が誕生した。オープンしたのは去年(1986年)の十一月だが、 予想以上の人気らしい。テレビで紹介されたそうだが私は見なかった。江戸ブー ムというのが、懐古趣味めいていて抵抗があり、ブームに乗せられたくない思い から無関心でいた。

ところが先日、あるきっかけから入館する機会があり、一度で資料館の虜になって しまった。自宅から歩いても行ける近さから、数日後にはまた出かけてゆっくり見 直してきた。江戸ブームはともかく、「深川江戸資料館」になぜ人が惹かれるのか、 それを考えるだけでも面白い。

この資料館のユニークさは、「情景再現・生活再現展示」という新しい展示技術を 駆使した点にあるようだ。入館者は一歩踏み込んだ途端、百五十年前の江戸の下町 に放り出された気分になる。地下一階から地上二階、三層にわたる高い吹き抜けの 大空間に再現された町は、深川佐賀町下之橋の橋際を、沽券図によって構成復元し たものという。

時代は天保の終わりごろで、建物は、建てられてから三十五年ぐらいの古びたもの。 大川の水を引いた掘割には猪牙船が浮かび、堀端には船宿、脇の広場には火の見櫓 がそびえ、足下の広場には水茶屋がある。

大通りには白壁の土蔵やお店、米屋や八百屋が軒を接し、小路を入ればドブ板をは さんで割り長屋が並んでいる。どの家にも当時の家具調度が配されていて、見学者 は手に取るように眺められるのが人気の所以とか。

「ああ、この桶、流し、へっつい・・・懐かしいねえ・・・付け木や火吹き竹もあ るよ」

溜息をつくのは五十代以上の年配者たちである。子供や若者にとっては、映画やテ レビの世界だろうが、みんな熱心に覗きこんでいる。タイプ別の長屋には、それぞ れ職人や船頭、三味線の師匠などが住んでいて、部屋に佇んでいると、彼らの話し 声が聞こえるようだ。すすけた壁や釘に吊した半てん、竹行李や枕びょうぶ。土間 の水ガメ、七輪に火消しツボ・・・。大方の家具や勝手道具には、見なれた懐かし さがわく。

じっと見ていると、百五十年前ではなく、私の育った戦前の農家の生活が彷彿とし てきて、胸が熱くなる。昭和十年代の山村は、まだ江戸時代の続きだったのかと改 めて考えさせられた。思えば私たち日本人は、戦後の四十余年間、そこからの脱出 を目指して、必死で働いてきたわけである。そして現在の物があふれ返る飽食の時 代を招き寄せた。

悔いのないはずなのに、現代の日常は先が見えなくて、不安で虚しい。人間の心は 荒れ、拝金主義が社会を蝕んでいく。この資料館に佇んでいると、不思議な人肌の 温もりと安らぎが戻って来るのはなぜだろう。

二度目に行って気がついた。ここにはプラスチックに代表される合成物質が無いの だった。当然のことに人間が管理するコンピューターも無い。建物や道具はみんな 自然の産物である。鉄材や木、竹や動植物の皮や繊維は、寿命がくれば壊れて朽ち る。燃えても毒ガスの出る心配はない。生きものの営みと同じに、消滅と再生をく り返すところに、人間は救いと安らぎを覚えるのではないだろうか。ある生物学者 の説によれば、現在のバイオテクノロジーの粋を集めても、大腸菌一匹作れないの だと言う。生命の生かされる自然の仕組みは不思議に満ちている。

大地にものを育てる農業は、自然の意志に根差しているから尊いのである。科学技 術を過信して、ビルの中で米や野菜を作るようにでもなったら、自然体系は狂い出 すだろう。

日常生活の息苦しさに追い立てられた人々が、資料館の江戸時代に安らぎを覚える としたら皮肉である。都市生活者も農村の人も、今こそ胆に据えて自然と生命の根 源に目を向ける時ではないだろうか。
 

 
杜父魚文庫