「釧路コールマイン」と名を代え



価格の高い鉄鋼向けの原料炭ではなく、廉価の電力向け一般炭を採掘していた太平 洋炭砿(本社・釧路市)は、2002年1月30日に閉山した。これで国内の採炭地はゼロと なった。(最盛期、道内で約160、国内で800を越す炭鉱が稼動していたと統計され ている)
創業は大正9年であり、約80年に亘る採炭活動であった。梅庭さんが働いていたこ ろの坑内の様子は聞き書きのとおりだが、閉山時には手組みの「枠」は、技術革 新のなかで放逐され、自動化された「自走枠」が開発されていた。採炭の進捗に 応じ、枠が自動的に前進し作業者の安全を確保する機械であった。手組みの枠と 違い、簡単で重筋労働も回避できた。その自走枠の下をドラムカッターという採 炭機(木材工場で使っている丸鋸を肉厚化し、回転した歯で炭層を削り取る機械) が唸り音をたて、石炭を効率よく削りとる、連携、連続した採炭システムに変わ っていた。

このシステムについて、北海道新聞の記事によると、「太平洋炭砿が1967年、当 時の三井三池製作所と共同開発した画期的システム。人力で枠を動かす場合に比 べ、落盤事故の危険度は格段に少なく、今では世界中の採炭現場で使われている。 同炭鉱は現在、最新の自走枠(独製)とドラムカッター(米製)に更新。50年に従業 員1人当たり年間113トンだった生産量が、99年には1838トンまで向上した、なお、 幅1.5mの自走枠は100台以上連なり作業をするが、国産メーカー品で一台1000万 から1500万円。太平洋炭砿が使う特注の米、独製は総額で13億円以上とみられて いる」と報じている。

梅庭さんの話によると、太平洋炭砿は甲種炭山だからガス発生面では安全であっ た、とあったが、2001年1月27日海面下620mの知人(しれと)地域の坑道のCo濃度 が異状に上昇した事故があった。このときは、通常10ppm未満のところ、感知器 が社内基準値(100ppm)を超える180ppmに達し、入坑していた300人のうち現場近 くの180人が退避し、注水し密閉するという事故も発生していた。
しかし、安全面でも技術革新はすすんでいた。「坑内の集中監視システムも83年 に太平洋炭砿が開発した。坑内の一酸化炭素やメタンガスなどの有毒ガスの濃度 や風量、風速、ドラムカッターの作動状況など、2000ものデータをコンピュータ ーで管理し、他にさまざまな安全対策をとり、2000年の災害発生率は、30年前の 40分の1以下に激減した」(北海道新聞)と報じられているように、採炭という攻 撃と安全という防御の両輪がコストの壁を突き破り開発されていた。この技術は 北国の海面下という、最悪の環境下での採炭活動の中から生まれたのであるが、 その苦労はいかばかりであろうかと、山仲間を2名、同じ職場で労災の名の下に 失っているだけに、賛意をもって感じた。

2002年1月30日に閉山した太平洋炭砿は、3ヵ月後の4月9日「釧路コールマイン」 と名を代え採炭活動を再開した。
採炭場所を海面下約760mから500mの浅場に移し、最盛期の約3分の一の年間70万 トンの採炭が生産規模で、547人の再雇用者(閉山による解雇者1500人中、雇用枠 の1.5倍の656人応募。雇用期間3年で原則1年ごとに更新。平均年収は太平洋炭砿 時より3割ダウンの440万円)の期待をになっての出発であった。
この再開事業には、「炭鉱技術移転5ヵ年計画」という国の支援がバックボーン にあった。消滅する日本の技術を海外の採炭国に伝えるのが目的で、計画にもと づきベトナム、中国の研修生を、年間150人ほど受け入れ技術の継承伝達をはか るという側面であった。
しかし、いずれにせよあと5年で石炭は枯渇という矛盾を胚胎しての再開であり、 5年後を睨んだ、事業の展開を注目したい。
 

 
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