心をこめて生きる


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学ぶ、という文字を見ると、私の脳裏には反射的に、学校、という文字が浮かぶ。続 いて、学歴、知識、教養・・・と連想が湧くのだが、これはたぶん私のコンプレック スのせいだと思う。ちなみに、私の最終学歴は中学卒業である。

終戦の年に旧制の女学校に入学した。三年生で学制改革にぶつかった。そのまま高校 に進学できたのだが、私の生家は山村の貧しい農家だった。六年間も町の学校に通え る筈がなく、私は自分の意志で高校進学を諦めた。戦後の混乱期に、中卒娘の適当な 働き口も無くて、私は村に帰って生家の手伝いをする身になった。本来なら四年で女 学校を卒業して、日赤の看護婦になる筈だった。

当時の日本人の誰もがそうであったように、国の歴史的な転換期の渦の中にまきこま れたわけである。いっしょに学校を去った仲間も、各クラスに二、三人は居たらしい が、私は自分の挫折感から他人のことなどを思う余裕がなかった。すべての価値観が ひっくり返った世の中を、どう受けとめたらいいか分からず、学業に対する熱意など とっくに失ってもいたのである。

私は小学生時代から、手当たりしだいに大人の本(キング・講談本・婦人雑誌の類) ばかり読みあさる、早熟な少女だった。身近にそういう本しかない環境だったから、 子供が菊池寛や久米正雄の恋愛小説に熱中していても、大人は気にもしなかった。時 代は軍事色が強化され、私は従軍看護婦の手記などを読んで、すぐその気になる軍国 少女でもあった。

村に帰ってからの私は、三年間でも女学校へ行ったという自負心と、高校進学ができ なかった挫折感で落ち込み、かなりシニックになっていた。といっても、大人から見 てなにを考えているのか分からない、という程度の娘だったのだが。私にデカダン娘 のニックネームをつけたのは、村の青年達だった。

その頃の農村は、農地改革によって根本からゆさぶられ、どこの村にも自由解放のか け声が満ちていた。ダンス・楽団・やくざ芝居が流行り、自由恋愛に憧れ、脱線する 若者達で村はてんやわんやだった。

気がついたら、私もその混乱の中にとび込んでいた。若者達の熱気はやがて”家”か らの自己解放を目差す運動にしぼられてゆき、青年団活動が盛んになった。その活動 に関わることで、私は村の一人の青年と愛し合うようになった。昭和二十六年当時、 私はまだひそかに、唐木順三著の「自殺について」などを愛読していたのだが、彼を 知って重い挫折感から脱けられた。

二十七、八年には、アメリカ直輸入の4Hクラブ活動が普及し、新しい農業技術の導 入もあって、村は着実に変っていくかに見えた。私は彼との結婚に希望を持った。新 しい農婦像を夢見ていたのである。農家の一人息子だった彼も同様で、二人は村の文 化活動にに揃って熱中した。五年間、それは悔いの無い充実した青春時代だった。

だが、私と彼は結婚できなかった。二度目の挫折で私が村をとび出したのは二十代の 後半になってからである。以来ずっと私は独りで生きてきた。勤めながら、小説を書 くようになって、二十余年になるだろうか。

農民文学会に入ったのは村に居た頃である。自然発生的な短編小説を書いた後上京し たのだが、数年間は生きるための仕事に追われ、ろくに本を読む心の余裕もなかっ た。

三十五過ぎて二度目に書いた小説で農民文学賞をもらった。それから数年後、短編を まとめた一冊の本で田村俊子賞を受けたのだから、私はついていた。幸運としか言い ようがない。

私の小説は自己流である。無知ゆえの怖いもの知らずで書いてきた。カルチャーセン ターのような身近な勉強の場もチャンスも無い時代だった。手さぐりで言葉を重ねる ことが、独りで生きる支えになった。

私は、郷里での挫折にこだわり続けた。愛し合った彼が、最後に親の反対に折れて、 私を裏切ったことが許せなかった。狂おしい憎悪とうらはらに、愛の記憶が未練と なって私を苦しめた。心に地獄を抱いた日々だった。家出の翌年父が死んだ。

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杜父魚文庫