心をこめて生きる 860501
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学ぶ、という文字を見ると、私の脳裏には反射的に、学校、という文字が浮かぶ。続
いて、学歴、知識、教養・・・と連想が湧くのだが、これはたぶん私のコンプレック
スのせいだと思う。ちなみに、私の最終学歴は中学卒業である。
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終戦の年に旧制の女学校に入学した。三年生で学制改革にぶつかった。そのまま高校
に進学できたのだが、私の生家は山村の貧しい農家だった。六年間も町の学校に通え
る筈がなく、私は自分の意志で高校進学を諦めた。戦後の混乱期に、中卒娘の適当な
働き口も無くて、私は村に帰って生家の手伝いをする身になった。本来なら四年で女
学校を卒業して、日赤の看護婦になる筈だった。
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当時の日本人の誰もがそうであったように、国の歴史的な転換期の渦の中にまきこま
れたわけである。いっしょに学校を去った仲間も、各クラスに二、三人は居たらしい
が、私は自分の挫折感から他人のことなどを思う余裕がなかった。すべての価値観が
ひっくり返った世の中を、どう受けとめたらいいか分からず、学業に対する熱意など
とっくに失ってもいたのである。
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私は小学生時代から、手当たりしだいに大人の本(キング・講談本・婦人雑誌の類)
ばかり読みあさる、早熟な少女だった。身近にそういう本しかない環境だったから、
子供が菊池寛や久米正雄の恋愛小説に熱中していても、大人は気にもしなかった。時
代は軍事色が強化され、私は従軍看護婦の手記などを読んで、すぐその気になる軍国
少女でもあった。
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村に帰ってからの私は、三年間でも女学校へ行ったという自負心と、高校進学ができ
なかった挫折感で落ち込み、かなりシニックになっていた。といっても、大人から見
てなにを考えているのか分からない、という程度の娘だったのだが。私にデカダン娘
のニックネームをつけたのは、村の青年達だった。
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その頃の農村は、農地改革によって根本からゆさぶられ、どこの村にも自由解放のか
け声が満ちていた。ダンス・楽団・やくざ芝居が流行り、自由恋愛に憧れ、脱線する
若者達で村はてんやわんやだった。
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気がついたら、私もその混乱の中にとび込んでいた。若者達の熱気はやがて”家”か
らの自己解放を目差す運動にしぼられてゆき、青年団活動が盛んになった。その活動
に関わることで、私は村の一人の青年と愛し合うようになった。昭和二十六年当時、
私はまだひそかに、唐木順三著の「自殺について」などを愛読していたのだが、彼を
知って重い挫折感から脱けられた。
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二十七、八年には、アメリカ直輸入の4Hクラブ活動が普及し、新しい農業技術の導
入もあって、村は着実に変っていくかに見えた。私は彼との結婚に希望を持った。新
しい農婦像を夢見ていたのである。農家の一人息子だった彼も同様で、二人は村の文
化活動にに揃って熱中した。五年間、それは悔いの無い充実した青春時代だった。
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だが、私と彼は結婚できなかった。二度目の挫折で私が村をとび出したのは二十代の
後半になってからである。以来ずっと私は独りで生きてきた。勤めながら、小説を書
くようになって、二十余年になるだろうか。
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農民文学会に入ったのは村に居た頃である。自然発生的な短編小説を書いた後上京し
たのだが、数年間は生きるための仕事に追われ、ろくに本を読む心の余裕もなかっ
た。
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三十五過ぎて二度目に書いた小説で農民文学賞をもらった。それから数年後、短編を
まとめた一冊の本で田村俊子賞を受けたのだから、私はついていた。幸運としか言い
ようがない。
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私の小説は自己流である。無知ゆえの怖いもの知らずで書いてきた。カルチャーセン
ターのような身近な勉強の場もチャンスも無い時代だった。手さぐりで言葉を重ねる
ことが、独りで生きる支えになった。
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私は、郷里での挫折にこだわり続けた。愛し合った彼が、最後に親の反対に折れて、
私を裏切ったことが許せなかった。狂おしい憎悪とうらはらに、愛の記憶が未練と
なって私を苦しめた。心に地獄を抱いた日々だった。家出の翌年父が死んだ。
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